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2018.7.14 UP

街に響く音は200年の時を刻んできた。鎚起銅器の伝統と革新の経営哲学 玉川堂七代目・玉川基行

「打つ。時を打つ。」

ここ、雪国の新潟県燕市で玉川堂(ぎょくせんどう)は200年に渡り、銅を打つ鎚音と共に、時を重ねてきた。

新潟県の無形文化財にも指定された鎚起銅器。
湯沸しや茶器、酒器、花器にいたるまで、玉川堂が作り上げる職人技の結晶は、私たちの一生よりも永く生き、日々の生活に彩りを添える。

東京の青山に直営店を持ち、2017年の春にはGINZA SIXにも直営店を構えた。若者や海外からの支持も高い。

歴史を省みながら、21世紀におけるこの国の伝統工芸の姿を捉え、玉川堂第七代目当主の経営哲学に触れて、日本の産業の未来を考える。

 
 

鎚起(ついき)銅器とは?それは途方もない手仕事の世界。

200年の歴史を持つ玉川堂の誇る技術、鎚起(ついき)銅器とはどのようなものだろうか。
鎚起銅器とは、一枚の銅板を金鎚でひたすら叩いて銅器をつくる、伝統的な加工手法のひとつだ。

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色や模様は、銅から作られた作ったとは思えないほどバラエティに富む
職人はケヤキでできた盤の上にあぐらをかき、腰かける。

ケヤキの盤に鳥口と呼ばれる、当て金(あてがね)を差して、そこに銅板に当て、木槌や金鎚で何度も何度も打つことで、形をつくる。
叩くことで銅は硬くなっていくが、叩く前の銅板自体はとても柔らかく、指で触って曲げられるほどだ。

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ケヤキの木の四角い穴に鳥口を差し込み固定する。
叩いたところは当然凹む。この凹みを横一列、同じように凹ませる。そうして一周ずつ段を上げて叩いていき、口径を縮めるようにうち絞っていく。一番上まで全て叩いたら、一旦、焼き鈍す作業になる。

熱すると、銅は柔らかさを取り戻す。叩いては火にくべて柔らかくし、形を整え、叩いては火にくべて柔らかくし…のまた繰り返しだ。湯沸しを作る場合だと、15回ほどはこの工程を繰り返し最終的な形状へ作り上げるという。

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こうして、途方もない数を叩くことでやっとでき上がる鎚起銅器だが、商品になったときが完成ではない。

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むしろ、銅器は使えば使うほどに色の深みが増すのだ。時を経ることで味わいを増すのが一番の特徴。そのため、代々家族で使う人も多い。

木槌や金鎚で叩く工程も火にくべて柔らかくする工程も、そのほとんどを手作業で行なうため、同じ商品をつくっていても出来上がりは一つ一つ微妙に異なる。寸法は決まっているが、図面はなく、職人の頭のなかにあるのみ。

誰がつくったのかは、職人同士が見れば一目瞭然だそうだ。

材料の銅板を切ることから、製品になるまで、1から10まで同じ1人の職人が携わるのが、玉川堂の基本。

一つの商品をつくるのに、最長で1週間以上かかる。

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玉川堂ならではの銅器の特徴とその着色技術

玉川堂の技の真骨頂とも言えるのが、口打出(くちうちだし)だ。

普通の湯沸は、本体の部分と注ぎ口の部分を分けてつくり、後で繋ぎ合わせる。それが、口打出では一枚の銅板から、本体を打ち上げるのと同時に注ぎ口の部分も打ち出していくのだ。

口打出は鎚起銅器の中でも特に高い技術を必要とし、習得するのに最短でも15年はかかる。その分、職人の技が光り、一生物として、また海外からも日本の匠の技の結晶として買い求める人が多い。

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口打出の急須
さらに、玉川堂は銅器の着色においても独自の技術を有する。

形ができた銅器に溶かした錫(すず)を塗り、それを焼くことで表面に銅と錫の合金を作る。その層を温泉の成分でもある硫化カリウムと反応させることで黒くする。表面を磨いたあと、色水と呼ばれる緑色のお湯で銅器を煮込む。色水には緑青(銅に発生するサビ)が溶かしてあり、酸化反応により銅器を着色する。

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化学反応を利用して多彩な色が表現される
錫の有無や、その塗り方、塗った後の焼き加減、磨き方等の組み合わせにより、多彩な色のバリエーションが生まれる。

鎚起銅器も着色の技術も、玉川堂に代々伝えられ、そして磨かれていったものなのだ。

その歴史とこれまでの幾多の危機を乗り越えての玉川堂の発展、そしてこれからの展望を、玉川堂の七代目当主、玉川基行(以下基行さん)本人に話を伺った。

 
 

数々の危機を乗り越え、この国に200年にわたって続く鎚起銅器の技術

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玉川堂第七代目当主、玉川基行さん
玉川堂の歴史は長く、古くは1816年の江戸時代にまで遡る。

「江戸時代に仙台の渡り職人が燕に鎚起銅器の技術を伝え、それを初代の玉川覚兵衛が受け継いで商売を始めたのが発端です。この近くの山は昔は銅山で、良質な銅が取れました。和釘なども作っており、この地域には金鎚を使う技術が根付いていたんですね。

以前は、日常的に使用する銅器をつくっていましたが、明治時代の海外博覧会を機に、工芸品と呼ばれるものもつくるようになりました。」

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1912年の玉川堂。
そんな玉川堂は、2016年に創立200周年を迎えた。200年もの間、鎚起銅器の技術が脈々と伝わってきたということだ。とは言っても時代はこの200年の流れで様変わりしているだろう。その間、玉川堂の中で危機はなかったのだろうか。

「実は、各代でそれぞれ1回は倒産しそうになったといいます。明治時代には、海外博覧会に出品する作品を載せた船が沈没し、また、為替変動で財産を失いました。昭和に入ると、昭和恐慌により全国どこもだめになりましたね。銅器をつくる余裕がなく、職人は土木作業員になりました。

戦時中は金属没収のため、銅を打つことができなかったり、職人も戦に駆り出されたりもしました。」

時代に翻弄され、思わぬアクシデントがある中でも受け継がれてきた鎚起銅器の技術。なぜ玉川堂はそんな時代の荒波を乗り越えてこれたのだろうか。

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商業習慣上、タブーとされていた商流を変えた

玉川堂の危機は決して過去だけの話ではない。七代目の基行さんが入社したときも、会社は危うい状況の只中にあった。

「95年に入社したのですが、そのときは売り上げが、昭和50年代のピーク時の3分の1しかありませんでした。職人も半分以上解雇せざるを得ませんでした。バブル崩壊前から徐々に売れ行きが悪くなっていき、バブル崩壊が決定打となってしまいました。

私は最初、役員報酬も数万円でやっていましたし、従業員にはボーナスを払えないこともありました。苦しい時期でした。」

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危機を脱するため、入社してすぐに次期、社長候補として経営に携わった基行さん。真っ先に着手したのが、今までの商流を変えることだった。

「私が入社するまではずっと問屋を通して売っていました。それが当たり前だったし、商売道徳の理にかなっていた。でも私は、問屋を通さずに売る方向へと変えていきました。」

問屋を介さないという業界のタブーに取り組むのは、若いからこそできたことだった。その背景には「誰に売っているのかわからない」という理由があった。

「問屋を介して販売しているうちに、お客様が何を望んでいるのか、どんな商品を求めているのかが、わからなくなってしまったんです。問屋が大事か、玉川堂が大事か…シンプルな話だったのかもしれません。もっとお客様の声を率直に取り入れたいと思い、お客様へ直接販売する方向へと変えていきました。」

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燕の工房は実際に商品を購入することもできる”本店”でもある
職人文化の玉川堂では、ものをつくる職人がわざわざ百貨店に営業しにいくなんて…と反対意見が多かったが、東京へと赴き、基行さんは自ら湯沸しなど商品を脇に抱えて飛び込み営業を行なっていた。

続けるうちに話を聞いてくれる百貨店の担当者もおり、実演販売を経て、売ることができる様になった。その後、2〜3年で成果が出始める。

「百貨店のお客様の声から新商品を開発しました。それまでは数十万する湯沸しや花瓶など、大きくて値の張るものばかりをつくっていましたが、ぐい呑やカップなど、比較的サイズも値段も手ごろなものを販売してみたんです。

すると、今までにはなかった層の方が買ってくださいました。父の日に娘がお父さんへのプレゼントとして購入する、など若い方に広まっていきました。」

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百貨店販売を定着させ、顧客の声をもとに商品開発をするようになり、現場の職人の意識も変わっていったという。さらに現在は、百貨店での売り上げをあえて抑え、東京の直営店や燕市の本店での販売に力を入れているそうだ。

「例えばルイ・ヴィトンやエルメスなどの高級ブランドは、直営店で販売していますよね。百貨店の包装紙にうちの商品が包まれているうちは、まだブランドとして確立していないのです。これからはブランドを確立するためにも、直営店でうちのスタッフが直接販売するのが良いと考えています。」

自分たちでつくったものは、自分たちで売っていく。エンドユーザーとの距離をさらに縮めるべく、玉川堂は常に「これからの販売の形」を模索し、また次の世代へと伝統を繋いでいくのだ。

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伝統工芸は伝承工芸ではない。いまというフィルターを通して生まれ変わる。

商流を変え、市場を知り、商品開発をし…数々の新しいことに取り組み、危機を脱した玉川堂だが、それはまさに社長・基行さんの経営の腕の見せどころだったのだろう。聞けば、基行さんは大学卒業後、23歳ですぐに玉川堂に入社したという。家業は以前から意識していたのだろうか。

「兄の死を機に、玉川堂を継ぐことを意識しました。家業を継ぐというプレッシャーを感じたことはありません。むしろ、学生の頃から、自分が入ったら玉川堂をどうしていこうか、ということを考えていました。

ずっと続いてきた家業なので、自分の代で閉ざしてしまうわけにはいかないという気持ちが強かったんです。」

生まれたときから玉川堂の技術を目にし、銅器に触れてきたからこそ、その歴史の流れを自分の代で閉ざす訳にはいかなかった。基行さんが入社してから20年あまり、この家業を再び盛り上げた背景には幼少の時の経験から育まれた力強い哲学があった。

「私は、伝統は伝承とは違うということを常に意識しています。伝承は同じことを繰り返すことです。一方、伝統は革新の連続です。

衰退している伝統工芸は、『伝承工芸』になっている。ただ技術を伝えるだけでなく、そのときどきの時代に合った経営をしっかりやらないといけないのです。」

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伝統とは革新の連続である───。

この哲学があったからこそ、玉川堂は若い人や海外の人にも受け入れられる、新しいものとして現代に生まれ変わったのだろう。

「『伝統と伝承は違う』という哲学は、私の代からうちの家訓にしたいと思っています。」力強く基行さんは語る。

 
 

財産は人。玉川堂の驚くべき職人育成制度

伝統を革新し続ける一方、昔から伝わる職人技術を確実に今、そして次の世代へと伝えていく。鎚起銅器の技術を身につけ、磨くには、ときに20年もかかる。

そんな玉川堂の職人たちだが、入ってから1年ほどは金鎚を触らせてもらえない。

「職人は基本、社員として雇っており入社時における経験の有無は問いません。入ってから1年は先輩職人の下仕事を覚える時期。金鎚を持たせませんが、その代わり勤務時間後や土日に工場を開放しています。

最初はそういった勤務時間外に、先輩から教えてもらって技術を覚えていく。一方、先輩の職人は、この時間に展覧会に出展する自分の作品をつくるなど、さらに腕を磨いていく。

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この工場の開放は、昔から続けているうちならではの育成スタイルで、言わば職人を育てる生命線なんです。」

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若い方も多く、工房内での表情は真剣そのもの
玉川堂は、就職活動を行う学生からの人気も高い。

自社の採用ページのみで募集をかけても、枠が2人のところを50人ほどの応募が殺到するという。第一志望の人が多く、玉川堂は顧客からだけでなく、学生や職人の就職先という立場から見ても人気が高いのだ。

伝統工芸の中でもこの人気ぶりには目を見張る。

職人は、全員が社員として雇われるだけではなく、英会話や書道、デッサンの研修まで用意され、日々、美に対する意識もアップデートされていく。

 
 

「男の職場」だった工場も、今は女性の応募者がほとんど

近年、玉川堂の応募者は増え、その8〜9割が女性で、毎年採用している。女性目線の商品開発にも力を入れており、フラワーボールという一輪挿しは、女性職人が、女性をターゲットにしてつくった商品だ。当初は売れるかどうか疑問視もされたが、発売されると好評で、そんな不安の声を消し去った。

とはいえ、鎚起銅器を始め日本の伝統工芸は、元々は「工場は女人禁制」といった雰囲気があるほどの男の職場。玉川堂に初めて女性で入社をした松川千香美(以下松川さん)も、最初はやはり戸惑ったようだ。

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「私が入社した頃(今から10年ほど前)は、女性は洗濯やお茶汲みなど、下働きの方しかいなかったので、初めて練習しに工場に入ったときは、緊張感が走りました。みんなの視線を痛いくらいに感じ、早く空気になりたいと思っていたくらい(笑)。

もともと専門学校で鍛金をやっており、就活でも鍛金ができる会社を探していたのですが、なかなか女性は雇ってくれなくて。そんなとき、玉川堂とご縁があり入社しました。女性だからできない、と思われると後に続く女性の道を絶ってしまうので、そこはかなり意識して責任もって取り組みました。

その甲斐あって…だといいんですけれど、最近はすっかり女性が増えました。社員として安定してものづくりができる職場は、ここが唯一のところじゃないかと思うくらいです。専門学校には女子が多いこともあり、女性応募者が増えているのではないでしょうか。」

玉川堂でも始めこそ「女性でもできるのか?」と疑問視されたくらいだったのが、今やどの工程も男女関係なく担うのが普通になった。むしろ、新しい商品開発の担い手として、玉川堂が女性を積極的に採用しているのは、「常に変化させていく」という基行さんの経営方針とも合致していると言えるだろう。

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女性のアイディアから生まれた鎚起銅器のフラワーボール
産休・育休を経た松川さんは、限られた時間しかないという意識があるためか、技術の習得に励む意識が強い。子供との生活も大事にしつつ、定年までには口打出の技術を習得したいと考え、週末も工場で鍛錬している。

その姿は謙遜しつつも、ひとりの女性として、とても凛とした姿に映った。

 
 

打つ。時を打つ。玉川堂の銅器に込められた時代を超える価値

玉川堂のスローガンは「打つ。時を打つ。」

そこにこめられた意味を、基行さんはこう語る。

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「職人が金鎚を『打つ』、お客様が『時を打つ』。私たちは銅を叩いて命を産み、その命をお客様に渡して、育んでもらうつもりでつくっています。言わば、赤ん坊をお渡ししているのです。

出来上がった商品は手仕事ということもあり高級品ですが、飾ったり大事にしまっておいたりするより、長く使ってもらいたいと考えています。」

命を産み、育んでもらうつもりでものをつくる。その1人1人の職人の姿勢、そして玉川堂の姿が、銅器をただのものの価値を越えた結晶へと昇華させる。

「銅製品として世界最高峰を目指しています。高付加価値の商品だからこそ、海外のお客様にも認められるのだと思います。」

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使い込まれたものが右。時を経ると独特の風合いを有する。
さらに、基行さんの革新は、留まることを知らない。

単にものをつくり、それを売るというフェーズから、「ものづくりを体験する」というところへ向かっているようだ。

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玉川堂は鎚起銅器の先端を行くだけではなく、燕三条のものづくり全体を引っ張っていく立場でもある。

燕三条のオープンファクトリーイベント、工場の祭典*が開催されるきっかけのひとつが玉川堂だ。100年も昔から工場を開放してきた玉川堂だが、もっと工場を多くの人に見てもらうために、2013年の工場の祭典の初回から参加している。

 

*工場の祭典…実際の工場(こうば)を見学し、職人から製品づくりの話を聴いたり、ワークショップとして体験できたりと、幅広い層が楽しめる新潟県燕三条エリアの看板イベント。

 

「燕三条の企業には工場をどんどん開いてもらいたい。というのも、燕三条を国際産業観光都市にしたいと考えているからです。

国際産業観光都市というのは、『産業』が『観光』の前に置かれるのであって、その逆ではない。ものづくりあっての観光、というところに重きをおいています。

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ただものをつくって売るだけでなく、ものづくりの現場や、背景にあるストーリーを知ってもらう。そして、ものづくりが観光になる。全国にこれが広がればおもしろいですよね。」

基行さんは国際産業観光都市をつくっていくべく、現在玉川堂の周りの土地との調整を少しずつ進めている。

「工場の隣に、うちでつくった湯のみやカトラリーのみを使ったレストランを展開したり、鎚起銅器を紹介する博物館をつくったりしたいと考えています。また、職人自らがお客様に商品の説明をすると、ものの背景にある想いを汲み取ってもらいやすく、それが高付加価値にも繋がります。
今、職人には週1回英語のレッスンをしています。工場を訪れる外国人を直接案内できるようになるためです。」

昨年(2016年)工場を訪れた人は5500人、そのうち外国人は400人。今年はもう、その数字を超え、10年後には今の倍を目指しているという。

「いずれ、売り上げの100%をこの燕本店にするつもりです。世界中から玉川堂のためにここにくるような会社を目指しています。」

時代を読み、着実に利益を上げる玉川堂。その鍵は、伝統技術を受け継ぎながらも、絶えず変化しているところにあった。

そんな玉川堂の姿は、これからの日本のものづくりの形を先頭切って模索している様に映る。

そして今日も、これから先も、燕の街には歯切れのよい鎚音が響き渡る。

 

株式会社玉川堂

本店/工場:新潟県燕市中央通2丁目2-21(8:30〜17:30/日曜祝日定休)
電話:0256-62-2015

青山店:東京都港区南青山5丁目11-5 住友南青山ビル1F(11:00〜19:00/火曜定休)
電話:03-5778-3020

銀座店:東京都中央区銀座6丁目10−1 GINZA SIX 4F(10:30〜20:30)
電話:03-6264-5153

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