2018.8.15 UP

手仕事を通して想像力を豊かに。有名工房から独立して鎚起銅器を製作する日々 大橋保隆

カンカンカンカン…。

一見、普通の民家の扉から、金鎚のリズミカルな音が響いてくる。

ものづくりの街・新潟県燕市にて、自宅の、決して広くはないけれど使い込まれた作業場で1人黙々と鎚起銅器の制作を行う職人の名は大橋保隆(以下大橋さん)だ。

道を挟んで向かいには、鎚起銅器で最も有名な老舗・玉川堂の本社がある。鎚起銅器は、一枚の銅を木鎚や金鎚で叩いて打ち起こし、やかんや湯のみ、花瓶など、銅器を手作業でつくっていく伝統的なものづくり手法だ。
(鎚起銅器と玉川堂について、詳しくはこちら

玉川堂から独立して個人で鎚起銅器をつくる大橋さんは、現在玉川堂の社長を務めている7代目、玉川基行さんの従兄弟にあたる。

親族経営の家業の家に生まれながらそこを飛び出し、それでもなお、地域の伝統に名を連ねる。

「生活が苦しいときもありましたが、辞めたいと思ったこともありません。」

楽な道とは言えない職人の世界。ましてや鎚起銅器の職人で独立する人は少ないといわれる中で、なぜ大橋さんは独立し個人で制作を行うのか。

そんな大橋さんの、職人人生を追う。

 


 
 

自分に合う道はどこにあるのか。探し求める日々。

実は、大橋さんのお父さんも玉川堂に勤めていた。工場長を務めていたお父さんの姿は、子供のころの大橋さんにとって憧れの存在だったそうだ。

「父の仕事場が小さいころの遊び場でした。工場長として職人を束ねる姿はかっこよくて、父みたいになりたいと、漠然と思っていました。」

だが、そんな子供時代が過ぎ、中学の反抗期のときには1年間父と口をきかないこともあった。

「高校に行け」と言われながら、中学卒業後は1年間浪人していたが、やはり自分には勉強は向いていないと感じていた。

結局、大橋さんが高校には行くことなく、6年ほどさまざまなバイトをして暮らしていたという。

「ふらふらとバイトをしながら、合う仕事があれば続けたい気持ちはありました。海の家、印刷屋、ワイン栽培など、ありとあらゆるものをやりました。ですがどれも3ヶ月〜1年ほどで、長く続けるほどピンと来るものはなかった。
 

ひとつひとつ言葉を繋ぐように語ってくれた大橋さん
そんなとき、地元のワイナリーで働き、ものづくり関連の人と関わり、自分の道はやはりここなのではと思ったんです。

父に反抗はしていましたが、その間も、ものづくりに対してネガティブな気持ちをもったことは決してありませんでした。

玉川堂に入りたいと話すと父は最初反対しましたが、社長の従兄弟は前向きに考えてくれて、入社することになりました。」

「ふらふら」していた6年間の経験は、直接今の仕事に生きているわけではない。それでも、「そうして外に出られた分、今は外に出たいとは思わない」そうだ。大橋さんは鎚起銅器の世界に飛び込んでから今に至るまでの20年間、ものづくりにまっすぐ取り組んできた。


 
 

「辞めたらこの街を出ていかないと」伝統の家系に生まれた決意

玉川堂に入社してからは一心不乱に鎚起銅器の技術を体得してきた。一族で行う家業に連なったからこその思いもあったという。

「入ってからは右も左もわからなかったので、とにかくがむしゃらにやりました。やるからにはやめられないという気持ちでした。辞めたらこの街を出ていかないといけない、と思っていましたから。

男子は玉川堂の家系に生まれたら、継ぐにしろ継がないにしろ、そこで仕事をすることをすごく意識すると思うんです。」

幼いころに働くお父さんに憧れたのも、その後反抗期を経ていろいろな仕事を経験し最後に家業に携わる決断をしたのも、「玉川堂の家系に生まれた」ということを意識し続けていたからかもしれない。

玉川堂での日々は、決して楽なものではなかった。

先輩の下仕事から始め、2年ほどしてやっと、金鎚を持って銅板を叩かせてもらえるようになった。仕事後の時間に自分の好きなものをつくって腕を上げ、大橋さんは最終的には副工場長を務めるほどになった。

家業に名を連ねるからには、やる。
その決意も、長く続いてきたこの街の伝統への敬意ゆえだ。


 
 

自分のやりたいこと、仕事でできることが乖離してきた

副工場長まで務め上げたのにもかかわらず、大橋さんは10年間勤めた後、玉川堂を離れることになる。

何があったのだろうか──。
それは、2007年に起きた新潟中越地震がきっかけだった。

「地震後、すぐにボランティアに行き、仮設住宅にコンロとボンベを配るプロジェクトを立ち上げたんです。被災地には、全国からさまざまな人が集まってきていました。普段は、作家など、ものづくりをやっている人との関わりばかりだったので、言ってしまえば狭い世界にいました。でも、いろんな世界、自分の知らない世界があるなかで、自分はどうしたいんだろう、と考えるきっかけになりました。

家が倒壊している被災地や失った人たちの姿を見て、もっと被災地にいたかったけれど、会社もあるし帰らないといけない。そういう状況にいる自分ってどうなんだろう、と疑問に思いました。今できることがもっとあるのに、できない自分は大丈夫なのかな、と。」

普段とは違う環境で、普段は出会わない人たちと関わることが、自分がいる環境を振り返るきっかけにもなった大橋さんは、改めて、自分がやりたいことを考えたと言う。

「鎚起銅器はもちろん続けるつもりでしたが、『もっといろんな商品をつくりたい』『お客様の声を直接聞いて、一から最後まで自分でやりたい』『全てを手でつくりたい』という思いが芽生えました。

 

この銅板が職人の手にかかりあらゆるものへと姿を変えていく
そしてそれは、玉川堂で社員としてやることではなかった。会社として鎚起銅器を製作しているので、下仕事など分業できるところは分業になりますし、お客様に直接売るわけではありません。決まった形の定番品に主力を注ぎます。

自分がやりたいと思ったことと、会社で社員としてやることが乖離し始めたと感じたので、思いきって辞める意思を社長に伝えたんです。」

最初こそ引き止められたが、玉川堂の下請けをやるという話になり独立が決まったそうだ。

玉川堂から独立する人はあまりおらず、大橋さんの前には過去に数人ほど。鎚起銅器で使う道具は一つ一つがオーダーメイドなので、道具を揃えて独立するハードルも高い。

そんな中、大橋さんは「例外」だったと言える。辞める決意をしてからわずか2ヶ月後には、独立の道を歩んでいた。


 
 

オーダーメイドと手づくりへのこだわり


 
 

独立後は既に引退していたお父さんと共に、玉川堂の向かいにある家に移った。最初の2〜3年は玉川堂の下請けをし、仕事がないときは自分がしたい鍛金(金鎚で銅板を叩く作業)、彫金(銅器に模様を彫る作業)の勉強や修行をしていた。

やりたいことをやる時間、欲しいと思っていた自由な時間が生まれた。

商品づくりは、独立してからこの10年間、基本的にオーダーメイドでやっている。大橋さんの工房では、湯沸、ぐい呑み、表札、お鍋…その人の要望に合わせた大きさや形のものを、一つ一つ丁寧に、全て手作業でつくっている。

「だいたい1日8時間、1週間かけて一つの商品をつくっています。時間はかかりますが、自分が納得いくまで銅器を叩くことができるのでやりがいがあります。作家活動はせず、シンプルでベーシックなものを追求しています。お客様には、日々の生活で使ってほしいと思っています。」

ウェブサイトやSNSを活用したり、催事での販売を通じてオーダーをもらったりすることはあるものの、それ以外に広告などは特にせず、使った人の口コミで大橋さんの鎚起銅器は徐々に広がっていった。独立してから3年ほどで「なんとかなってきた」という。地道に、一つずつ実直につくっていった結果だろう。

「『てづくりで、いろんな形をつくっていると聞いて…』とオーダーしてくださる方が多いです。既製品ではないものを会社に頼むと価格が跳ね上がるので、個人でやっている私に頼むというところもあるのではないでしょうか。」

大橋さんがつくっているものは、例えばミルクパンだと2〜3万円から。確かに、長く愛用するものとして、頑張れば手が届きそうな値段だ。


 
 

苦しいときも、他の仕事は一切せずにここまでやってきた

大橋さんがもらうオーダーは確実に増えている。それでも、鎚起銅器を個人でやっていくというのは決して楽な道ではない。

聞けば、普通に「食べていける」ようになったのはごく最近のことだという。

「辞めたいと思ったことはありませんが、独立して5年目くらいになってもバイトしないと食っていけない、そんな状況はありました。それでも、最初のころ以外は、下請けを含め他の仕事は一切せずにやってきました。踏みとどまってアイディアを出し、商品開発に励んできました。

玉川堂の社員のときに比べると、それは不安定ですが、不安はありません。家もあるし、贅沢しなければ、自分一人なので苦しいときもなんとかなるという気持ちでやってきました。」

 

ひたすら叩く。金属音が工房にこだまする

想像力を豊かにしてもらいたい。そのために鎚起銅器を続けていく

独立してから今年で11年目を迎えた大橋さん。現在は、三条ものづくり学校での銅鍋づくりワークショップを開催したり、これまで使ってきた鎚起銅器の資料を集めた資料室をオープンする予定であったりと、鎚起銅器やものづくりを広める活動も行なっている。

「銅鍋づくりのワークショップは特に好評で、東京からわざわざ来る方もいます。そうすると私の商品を買った方が安いかもしれませんね(笑)。

それでも、自分でつくることを体験したいという思いがある。1日かけたら銅板が鍋になって、その夜に作った鍋と一緒に寝るという人もいます(笑)。そういうのを聞くと嬉しいですよ。」

大橋さんが、誰かにものづくりを体験してもらうにあたり、大切にしてほしいことは「想像力」だという。

 

「一枚の板がこんな風に鍋になっていくんだ、と思ってもらえると嬉しいです。

今、目の前にあるものがどうやってできたのか、つくられたものをどのように使っていくかなど、ものづくりを体験することを通じて、想像力を豊かにしてもらいたいんです。それは、私が鎚起銅器の仕事をしている理由でもあります。

現代では、ものの背景やものがそこに存在する理由がわかりづらくなっている。極端な例で言うと子供が、魚は刺身の形で泳いでいると思い込んでいるとか。

『想像力が大事』ということを伝えるために、つくり方も変えないし、一枚の銅板からひたすら一つのものをつくる・形にする、ということだけを続けています。」
 
鎚起銅器の技術は習得するのにも道具を揃えるにもお金や時間がかかる。特に彫金と呼ばれる作業を並行してやるのは、若い人では大橋さんだけだ。商品づくり以外の活動も行なっているのは、そういった背景があるからだろうか。

 

「鎚起銅器という技術、ものづくりが続いていくようにもちろん努力していますが、(鍛金をやっている若い人が少ない)危機感はないですね。世間から求められていないのなら仕方ないかな、と。

ただ、鎚起銅器の技術は自分も師匠から教わったもの。また、一口に鎚起銅器と言ってもいろんなやり方がある。自分が教わった技術、自分なりのやり方は、次の世代に伝えていきたいとは思っています。そのうち、弟子を取って教えるというか、一緒に働ける人が欲しいです。」

大橋さんにとって自分らしい鎚起銅器とは、「成長する場を作り続けること」。銅板を叩き続けることでも、同じ形の鍋をつくっても、次に作る時には何かが少し成長していると話す。

鎚起銅器の伝統に連なり、大きな流れに身をおくこと。

独立をして独りで、自分のものづくりを極めるということ。

これらは決して簡単なことではないだろう。
元に、大橋さんも生計を整えるまでに10年もの歳月を費やしている。

それでも大橋さんが一つ一つ、実直に手を使い、つくっていくことの先に、その二つを両立させていく道と、職人を越えたひとりの人として、今より成長した姿が見えるのではなかろうか。

 

鎚起銅器職人 大橋保隆

新潟県燕市中央通2丁目3-43-1
MAIL:yasutaka@tsuiki-oohashi.com
TEL:090-8610-7017
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