現役54年の職人と企業秘密に匹敵する高度な技術。
「唯一無二」が詰まった燕の町工場 有限会社 柄沢ヤスリ
機械に向かってヤスリの製造に没頭する職人たちの背中が並び、どこにも真似ができないものづくりが脈々と続きます。
古くから受け継がれてきた職人技を今に繋ぐ93歳の熟練ヤスリ職人の岡部キンさん。
生産が追いつかないほどの人気を誇る爪ヤスリ『Shiny(シャイニー)』の生みの親です。
岡部さんを筆頭に、専門家も驚くような高度な技術をなんてことない様にこなす、若手からベテランの職人さんたち。
新潟県・燕市で真摯にものづくりを続けてきたからこそ生み出された、「唯一無二」で溢れる柄沢ヤスリ工場に潜入しました。
柄沢ヤスリを語る上で避けて通れない、精神的要の存在。
ある夏の暑い日。数回の改良を経て、ベテランヤスリ職人、岡部キンさんが、『Shiny(シャイニー)』シリーズの原型を手に事務所に入ってきました。
当時を振り返り、社長の柄沢良子さんは懐かしむように話します。
この頃、柄沢ヤスリのみなさんは自分たちの持つ技術を、自分たち以上に評価する人がたくさんいることを知りませんでした。
そして、54年もの長い間、現場に立ち続ける職人の岡部さんが、世間の人々にとって驚くべき存在だということも──。
柄沢さん「だって、私たちにとって岡部さんは居てくれて当たり前の存在だったんだもの。」
「以前うちを訪ねてきたお巡りさんが『今、ここからおばあさんが出てきましたよね』と言ったんです。みんなキョトンとして、『おばあさん?誰??』と顔を見合わせました。岡部さんのことだと気がつくと、ついカッとなって私、相手に言ってしまったんですよ。『あのね、あなたの祖母でもないうちの社員をおばあさん呼ばわりしないでください!』って(笑)」
岡部さんは、柄沢ヤスリにとって「精神的な要」なのです。
柄沢さん「岡部さんがいるだけで、現場が引き締まるんです。」
何気ないけど、かけがえのない燕のものづくりの日々。
柄沢ヤスリの工場での営みをさらにご紹介します。
この地の職人が守るヤスリの技術とものづくりの魂。
戦後になると、ヤスリに取って代わり洋食器の生産が盛んになり、ヤスリの工場数は激減。その後、現在も燕の地で昔ながらのヤスリ作りをしているのは、たったの3軒となりました。
燕に残されたひとつである柄沢ヤスリは、昭和14年に創業しました。
金属加工やプラスチック加工、爪やかかとの手入れまで、日本で柄沢ヤスリにしか作ることができないバリエーション豊かなヤスリを生産し、多くの日本のものづくりの現場を陰で支えています。
時には、国内ヤスリの一大産地である広島県呉市*の大きなヤスリ工場から、「こんなのできないか?」と相談がくることも。
巷ではこう言われるほど、柄沢ヤスリの技術と信頼は絶対です。
さらに柄沢ヤスリの評判は、いつの間にか海をも越えていました。
なんでも、ヴァイオリンの一級品である「ストラディバリウス」を作るイタリアの職人さんで、柄沢ヤスリを知らない人はいないと言います。
柄沢ヤスリが誇るこの独自技術を今に繋ぐキーマンの岡部さん。
燕市の家庭に嫁入りして、子育てがひと段落した30代から技術を修得し、それ以来ずっと、ヤスリ職人としてこの地で粛々と働き続けてきました。
それもそのはず。
『Shiny』は何度も試作を重ねて、岡部さんが長年の技術の積み重ねを経て、ようやく編み出した絶妙な加減の切れ味がウリだからです。
『Shiny』は、「切れ味が良すぎると怪我をしそうで怖い」といった女性たちの意見を参考に開発されました。そこで、目の深さを従来よりも浅く、細かく刻んでいくことにより優しい削り心地を実現しました。かと言って、ヤスリとしての切れ味や商品の耐久性も譲れません。
この優しさと削りやすさのバランスを調節するのは、至難の技なのです。
なんでも、岡部さんは他の職人さんも敵わないような集中力の持ち主だと言います。
彼女が目立てをしているときはあまりにも作業に没頭しているため、決まりごとがあります。
柄沢さん「ウチでは、岡部さんが機械の前に座って作業をしている時に突然声をかけるのは禁止です。岡部さんに用があるときは、遠くから声をかけて気づいてもらってから、そばまで行くんですよ。」
この6名で、工場で生産する1本1本のヤスリの目を立てています。
ここでのヤスリづくりの工程は、大きく分けて以下の7つに分けられます。
①火造り
②焼きなまし
③削り
④目立て
⑤味噌付け
⑥焼き入れ
⑦表面仕上げ
そして肝となるのはもちろん、ここまでにも触れてきた目立ての作業。
柄沢ヤスリにある目立て用の機械は、古いものは戦前から使っています。部品の予備を他の鉄工所などから譲ってもらい、修理をしながら大事に使っています。
「これって企業秘密ですか?」識者の言葉にハッとした自分たちの技術力
全自動ではないので、人間にしかできない細やかな調整ができる反面、一つひとつに職人の感覚による判断が要求されます。
工場をまとめる石田さんいわく、ヤスリ職人に必要なのは「勘」。
加減を調整するのが一番難しい上に、その感覚はなかなか言葉では伝えられないのです。
凄腕の柄沢ヤスリの職人さんたちが自分たちの技術の価値を理解したのは、外部からの思わぬ反応がきっかけでした。
柄沢さん「大学の先生に『これって企業秘密ですか?』と言われたんです。そのときに、私たちは甲丸(こうまる)をつけるという難しい技術を簡単にやっていたことに気がついたんです。」
「甲丸をつける」とは……?
爪の形に沿って、緩やかに弧を描いています。この形を「甲丸型」と言います。
目立てをしたばかりのヤスリは、本体を裏返すだけでも目が潰れてしまいます。
そんな繊細な状態で、岡部さんが切った目を潰さずに甲丸型に曲げるのは、普通に考えればとても難しい作業。
一つひとつのヤスリにじっくりと時間をかければ可能かもしれませんが、商品として量産するためにはそんなことはしていられません。
つぎつぎとこの難易度の高い甲丸型のヤスリができていく様子を見た専門家が、「企業秘密を見せてくれた」と勘違いしてしまっても無理はありません。
味噌づけのヤスリ? 昭和から脈々と受け継がれる伝統技法
実はこれ、同じくに日本のヤスリの産地である広島県の呉市でも古くから受け継がれている生産技法のひとつなのです。
これは、その後に行う「焼き入れ」の工程でヤスリを高温の鉛が入った窯に入れ強度を増す際に、せっかく立てた目に鉛が詰まってしまうのを防ぐためです。
さらに、焼入れで高温に熱した直後には冷水につけるので、そのときに発生する水蒸気から、ヤスリ本体を守ることもできます。
こうして焼き入れの前に味噌を付ける工程は、江戸時代にすでに定着していたと言います。
柄沢ヤスリの現場では、味噌が焼けたほんのり香ばしい香りが漂っていました。
『ボール印』は、先代が「ボールが遠くに飛ぶみたいに良く売れるように」との想いを込めて作ったもので、柄沢ヤスリの普及版ブランド。
『五万石印』は、新潟県のお米の収穫量が増加した時の記念に、高級シリーズとして誕生したブランド。
そして『つぼ力』は、両刃ヤスリというヤスリを商品化した際に作ったブランドです。
柄沢ヤスリの名前同様、これらのブランド名でピンとくる現場の方もいらっしゃるかもしれません。
技術を未来へ。次世代の柄沢ヤスリの担い手を育成
柄沢ヤスリでは、唯一無二の技術を次の世代に伝えていくことを大事にしています。
「岡部さんにとっては孫よりも若いんですよね」と、現場では温かな笑いが起こりました。
岡部さん「若い人と一緒に仕事をしていると気持ちも若くなります。」
工場内の若手に対し、丁寧に技術の指導にも当たっている岡部さん。
また、工場の指導係でもある石田さんは、まるで父親のように若手を見守ります。
石田さん「最近の若い人は覚えがいいからね。基本をある程度習得したら、あとはあんまりあれこれ言わずにたまにアドバイスするくらいですよ。あとはセンスだね。」
新しい機械を導入するための改装工事も始まり、柄沢ヤスリでは着々と未来への投資が進んでいます。
若き日の岡部さんが、競うようにしてヤスリの目立てをしてきた頃と変わらぬ技術が、今も続いています。
そんな工場の日常の尊さが、あのひと言に集約されていると思います。
「柄沢ヤスリさんで断られたら、どこに頼めばいいんだ。」
さまざまな世代の職人が共に働く燕三条の町工場には、穏やかさの中にも、あらゆるものづくりを支える責任と誇りを感じました。
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