「叩く」ことに意義を見出したかった 親子二代の真剣勝負
日野浦刃物工房
ガシャッン、ガシャン…と小気味良いリズムで金属を叩く音が耳を刺激する。
───この場所には、日本のものづくりの心魂が宿っている。
直感でそう感じるほどの空気が立ち込める。
新潟県で100年以上の歴史を誇る鍛冶屋、日野浦刃物工房のものづくりには、どれだけ時代が移り変わっても、失ってはいけない、仕事人の「誇り」が残っていた。
鍛冶の街、三条。日本の中でも随一の魅力
日野浦刃物工房のある、新潟県の燕三条地域は、家族経営や中規模の工場が街中にひしめき合う、国内屈指の金物の街。
江戸時代の和クギの製造に端を発し、発展してきた三条の金属加工技術の数々は、平成の時代にも脈々と受け継がれ、そのものづくりの名声は海を渡り、遠く海外にまで轟く。
「あらゆる金属加工の全てをこの街で完結することができます。国内の刃物系7大産地を訪れてきたけども、こんな産地は他にはありません。」
鍛冶屋がいて、それを売る人がいて…。
かつてはこの地に500軒以上もの問屋が存在した。
そして、それは今でも少なくなったとは言えど、180軒はあるという。
この内の10%程度が刃物の卸。他の産地とは絶対数が圧倒的に違う。
司さんが昔、先輩から譲り受けた昭和30年前後の旧式のスプリングハンマーも、当時すでにパーツすら存在しなかったが、三条だからこそ、周りの事業者に電話で声をかけ、修理することができた。三条の街にはゼロからイチを作り出すものづくりの力があるからだ。
「現在でも市場でこの地域の需要があまり落ちていないのは、三条のこういうところにあると思います。三条の中の人たちも、もっと自分たちの魅力に気づくべきですね。」
海外でも評価される日本の鍛冶技術
日本の刃物は、日本料理を作るために作られている。日本料理の特徴は、素材を活かすこと。フランス料理の様にソースをかけることはあまりしない。
そして、素材の良さを活かそうとすると、自然と包丁の切れ味が要求される。
「玉ねぎだって、良い包丁で切ったときは目に染みないんです。日本のトマトは柔らかいけれど、キレ味の鋭い包丁で切ると嘘みたいに潰さずに良く切れます。刺し身を切るにしたって、耳がピンと立つ。」
10年以上前にドイツの展示会「アンビエンテ」に出展した際も、世界中の数十万の包丁が集まる中で、展示会の案内冊子に、日野浦刃物工房の包丁が選ばれた。
海外のデザイナーとのコラボのオファーも多く舞い込んだという。
「こうして海外で評価される事は本当に嬉しかった。確かに自分たちの包丁は値段が高い。その値段の違いをお客さんに説明するために、体験して、その目で見て分かることが大事だと思いました。」
いつも目の前を覆い続けた、二つの選択肢。
ビジネスか、伝統か。
その姿勢の裏には、長年自分を悩ませた、二つの選択肢との葛藤があった。
「私が鍛冶屋の世界に入った頃は、二代目である自分の親父に『10年頑張れば家ぐらい建つろー』と騙されて、家業に入ったんです。私もそれまでは家業は継がずに営業の仕事をしていたんです。」
父親と同じことをやっていれば食べていけると安易に考え鍛冶屋の門戸を叩いたが、これがとんでもなかった。
当時は丁度、鍛冶屋が工業化して工場へと移り変わろうとする時代。周りの他の工場はどんどん様子が変わり、日野浦刃物工房への注文数は減ってきた。
「周りの鍛冶屋もみんな、注文が減っているのか?と見に行ったら、工業化していて、より早く、より安く、変化をして時代に対応していたんです。」
司さんはそんな時代のはざまで工房の後を継ぎ、周囲と同じように設備投資をして工業化すべきか、親父の培ってきた伝統的な技術で食べていくか、いつも間に立って生きてきた。
昔は、学校へ行くよりも、職人になった方が良いと言われていた。鍛冶屋は、工業化するといっても、何の知識もないまま育ってきたのが当たり前だった。
───とにかく叩けばいい刃物ができ上がるんだ
ただ教え込まれて、どこもやってきたんだと思います。自分の父親もそのような考えでした。」
しかし、三代目の司さんは、そんな時代の流れや考え方に疑問を抱いていた。
「お客さんに刃物について何か聞かれた時に、いい加減に『昔から叩けば良い刃物になると言われているんです』では、通用しない時がくると思っていました。」
焼入れの温度は何度?焼戻しの温度は何度?金属組織変化がどうだ?
当時はそんな学問的なアプローチなんて全くなかった。
そんな時代に、司さんは鍛冶屋としての基本に立ち戻り、しっかりと技術的な土台と、学術的な根拠を作るために勉強を始めた。
自分たちは学者ではない。
それでも「冶金学」で自分の技術に確信を
工業化か伝統か、二つの選択肢の決断を迫られる三代目の司さん。
結局、伝統的な技術を使い、少量生産でも品質の良い刃物を作る道を選んだ。
その結果として、司さんは先代の工房から、あらゆる事を変えてきた。
「良く言われる言葉だけど、伝統とは革新の連続だと思う。脱皮しない蛇は死ぬ。鍛冶屋だって脱皮しないと駄目ですよね。」
「良い刃物はどういうものか? それを知るために、金属顕微鏡で鋼(はがね)の中身を見たんです。」工業化され、機械のプレス*で打ち抜いた鋼と、自分たちが叩いて鍛えた鋼との違いを日夜研究した。
───その品質の差ははっきりとしていた。
司さんは、現場レベルでも変化を起こしていた。
それまで刃物を作る際、金属を急冷する工程である「焼入れ」の作業時は、冷やすのに油が用いられてきた。油だと、ゆっくり焼きが入るし、鋼が割れずに、歪みが出ない。
しかし、司さんはそれを水に変えた。その理由はなぜかなのか?
「あえてリスクを背負ったんです。金属の冷却速度が、水は1に対して油は0.3しかない。その0.7の違いにかけたんです。水であれば、冷却するスピードが早くなります。冷えるのが早いってことは、金属の組織が、研究してきた理想とする組織に近くなるんです。また、『焼戻し』の工程は『焼入れ』の逆で、金属に熱を少し加え、作りたい刃物に合わせて金属を柔らかくするもの。この工程も刃物にとって実はベストなんです。」
刃物を使う消費者は、金属顕微鏡なんて使わないし、金属組織なんて見ていないから、そんなこだわりは時間の無駄だともいわれた。
「しかし、焼入れ時に甘く調整することって、早く言えば不完全焼入れなんですよ。金属組織的にはその時に叩いて鍛えた方が断然強い。」
「こういう性格なんで、みんながみんな右に倣えでなくても良いと思ったんです。金儲けだけで言えば、右に倣えで効率化、工業化していた方が利口だったと思います。それでも私は、もっと内容の良い刃物を作る道を選んだ。自分たちが機械ではなく、手で作ることに意義があるのか?ビジネスとしての価値はあるのか?この答えを長年探してきました。プレスで抜いたものよりも、手で作ったものの方が本当にクオリティの高いものが作れるかを知りたかったんです。」
アート作家では、飯は食えない。
それに、自分たちは学者ではない。
それでも、化学的に良い刃物とはどのようなものだろう?
自分たち職人は日ごろ真っ黒になりながら、工房でひたすら叩いている。
司さんはいう。
それから今日の日に至るまで、日野浦刃物工房では試行錯誤を繰り返してきた。
これからの時代は、
伝統工芸少量生産でもきっとやっていける
「伝統的な技術で良いですね。」
なんて、みんな口を揃えた様に話す。
「でもじゃあ、周りの同じ様な鍛冶屋に後継者がいないって、どういうことか?」
「それは飯が食えないってことだから、本当にこれは魅力があることなのか?」
工房の三代目・司さんの息子で、次期、日野浦刃物工房を背負って立つ、四代目の日野浦睦(むつみ)さん(以下、睦さん)は、これからの時代でも、今までの父のやり方を貫き通そうと、覚悟を持つ。
睦さんは、日野浦刃物工房に新しい風を吹かせるため、未開の取り組みにどんどん挑戦する。
そんな睦さんの鍛冶の技術は、実はいっさい父親には聞かず、この目で見て覚えてきたというから驚く。
「親子なのでやりやすい部分と、やりにくい部分はどうしてもありますよ。」睦さんは話す。
職人親子の関係には、少しピリピリしたものを感じた。その理由を探ると、仕事が終わった後、ものづくりについて話し合いをしていると、喧嘩になることも多い、と司さんは話してくれた。
三代目と四代目、お互いがライバルだ。
それでも、お互いについて思っていることをそれぞれ伺うと、そこにはやはり、いち職人としての「尊敬」と、確かな親子の「絆」を感じ取ることができた。
司さん「喧嘩したって仕方ないし、息子が父親に『もっとこうした方が良い』と言われたら嫌なのは分かっているんですよ。それでも、あえてあれこれ言うのは、息子を想っているからこそかもしれない。」
それに、司さんはお互いをライバルであるべきと考えているそうだ。
「父親だし、鍛冶屋の経験も長いので『まだ負けないぞ』という気持ちはあります。でもいつか、息子が自分を越える時が来るのは分かっている。そういうものだから。こういったお互いを高め合う気持ちは、あった方が良いと思っています。」
司さんがまだ若手だった頃は、自分のやりたいことを貫く姿勢に対し、「手間のかかる作業ばっかりやって無駄じゃねーのか」と周囲からも言われ、半ば馬鹿にされてきた。状況を跳ね返そうと、反骨精神で「世界に必ず出ていってやる」と奮起してきた。
そんな昔の状況とは打って変わって、四代目の睦さんの生きる現在は、伝統を基調としたものづくりの風向きが良い時代と言える。
睦さんは、若い頃からこうしてメディアに取り上げられ、周囲からも認められた上で、ものづくりをすることができている。
そんな状況に対して司さんは、「チャレンジする意識をいつも持ち続けて欲しいし、常に謙虚で、良いものを作ることに真摯でいて欲しい」と、願いを込めて話す。
それに対する睦さんの言葉の端々にも、父親である三代目への敬意を感じた。
睦さんは「進んでいきたい方向性は父親と一緒です。」そう断言する。
父親である司さんが音頭を取る日野浦刃物工房の『司作(つかささく)』ブランドも、息子率いる『味方屋作(あじかたやさく)』ブランドも、両方を継続させていく決心だ。
四代目、「味方屋」が描く未来図
改めてそう睦さんは話す。
「伝統的技術とアナログ技法でこだわり抜いた『司作』ブランドも、時代に合わせ一定の量産にも対応した『味方屋作』も、今の日野浦刃物工房には必要不可欠な要素だと思っています。」
今までの鍛冶屋っていうのは、家内で継ぐのが当たり前だった。
そこに外部から人を入れれば、入れるほど、守り抜いてきた伝統を捨てないといけなくなる。
「だから、うちは少数精鋭で、伝統を捨てない範囲で、工房を続けていければと思います。」
工房内の刃物の量産は、睦さんが指揮をとる。
ここには先代からの機械も沢山あるので、ある程度の作業は女性が出来るようになっている。
「うちのおふくろがいじって作業できる部分もあるんです。そんな形で徐々に在り方を変えていかないと、と思います。」
「職人自らの固定概念を変えていく必要がある」と睦さんは話す。
「ものづくりは、人だよ」日野浦刃物工房が守り続けてきたのは、誰よりも真摯に“消費者”に向き合う姿勢。
司さんは正直、昔は工場が三代で終わってもいいと思っていた。
「それでも、うちの子供から見て、自分が生涯をかけてきた仕事のことを、魅力がねぇなんて思ってほしくなかったですね…。」
睦さんが鍛冶の道へと入り、そこからは「地獄だった」と司さんは笑いながら話してくれた。自分のことだけでは済まなくなるし、本当に大変だったと振り返る。
「後の世代に繋げるために、きちんとおれの代でやっていないと…」
司さんは15年ほど前、インターネットの台頭で新しい時代がくることは分かっていた。あの時予見していた時代が、今なのかもしれない。
海外の市場も分かってきたし、そこをしっかり伸ばしつつ、もっと国内需要も伸ばしたいと司さんは考えている。日野浦刃物工房の取引先は、現在8割程度が海外。
「理想としては今の逆で、国内が7、海外3ぐらいが良いと思っています。そのためにも工房は、最近の三条周辺の流れであるオープンファクトリーではないけれど、訪れてくれた人に、うちの歴史や、鍛冶の工程をもっと理解してもらう事をやらないといけないと思ってます。」
「今の様に薄暗い工場の中で、真っ黒になりながら職人が汗を流す、そんな状況の場所にこれから若い人がやってきますかね?果たして興味を持ちますかね?鍛冶屋も進歩するべきだし、昔ながらの鍛冶屋だとしても、より良い場所でものづくりをする環境が、これからは必要になってくるんじゃないでしょうか。」
今の時代は3Dプリンターを使えば、データを入れればなんでもボタンひとつで出てくる。
そんな中で自分たちはなぜ、鉄を赤くして、そこに鋼を付けて、叩き、ものづくりをするのか?
「時代の新しい技術や経済を知らずにいるのが嫌なんです。これからの時代は例え小さな鍛冶屋だとしても、作ること、経営すること、売ること。この3つをしっかりやっていかないと駄目。そう思ってるんです。」
「ものづくりに関して一番大切なのは、消費者が求めるものを作る技術があること。さらには、それを汲み取る技術があること。自分たちはエンドユーザーのためにものづくりをしているのであって、それを決して忘れてはいけない。」
良いものを作ることに、とことん真摯に向き合う職人であれ。
100年の歴史を持つ日野浦刃物工房の革新はこれからも続く───。
JAZZに自分の職人としての生き様を重ねて
司さんは昔、自らニューヨークに渡り、名門ジャズ・クラブのビレッジバンガードを訪れ、オーナーであるマックスゴードンに会うほどこよなくジャズを愛しているという。
職人としての自らの試行錯誤の日々は、ジャズの歴史背景や、アーティストに重なる部分も大きいと話す。
それでも、日野浦刃物工房の職人としての生き様は、ジャズでも、ソウルでも、フォークでも、ジャンルなんて関係なく、まさに「ロック」そのもの。
ロックな鍛冶職人の、切っても切れない親子の絆が、二人の鍛冶屋魂を今日も熱く鍛え上げる。