桐箪笥文化を次の世代へ。受け継ぐ想いと共に再生する箪笥 酒井指物
しかし、その魅力は金属加工の産地だということに留まりません。工場で多種多様な製品を産み出すだけでなく、今もなお職人たちの手仕事が受け継がれ、暮らしの中にも息づいています。
今回は、燕三条で「酒井指物」を開業し、指物*師として桐箪笥の修理や再生を中心に、新しい価値を次の世代へ引き継ぐ仕事をしている酒井裕行さんにお話を伺いました。
「自分の生き方とは?」人生観が変わった転機。
酒井さん酒井指物は、2014年8月に開業しました。一家に一台、桐箪笥をお持ちの家庭は今でも多くあると思います。しかし、使われなくなったものもありますよね。僕は、古くなったり傷ついたりした桐箪笥の修理・再生を中心に、今の生活に合ったものに直すことで、次世代へと引き継ぐことを提案しています。修理だけでなく、現代の住環境やライフスタイルにあった形へと再生することで、みなさんに長く使っていただけたらと考えています。
───新しく作るというより、修理や再生をメインにものづくりに携わっているんですね。元々、家具作りや木工に興味があって独立しようと思われていたのですか?
酒井さんいえ。僕は新潟県十日町市の出身で、大学時代は東京の理工学部の機械学科で特殊な金属を研究していました。ジェットエンジンの部品など、新しい素材の加工特性を調べていくような。それは有意義だったし、志望者が多い分野でした。ですが、僕がやらなくていいのかも…と思うようになったんです。
───元々は金属に興味を持たれていて、金属機械に関するお仕事をしたいと思っていたのでしょうか?
酒井さんはい。僕は車が好きで、当時は車のデザインがしたかったんです。しかし、高校は普通科に通っていたので、デザインを学ぶ機会はありませんでした。そこで、車の中身である機械のことを知れば、車の構造から最適なデザインが出来るのでは、と考えて進学したんです。ただ、大学は研究施設であって、ものづくり施設ではないんですよね。入学後、1〜2年は没頭していましたが、僕は研究より「作ること」が楽しいんだと気づいたんです。タイミングを同じくして、今後の生き方を考えるきっかけとなったのが祖父の死でした。
祖父は、84歳で亡くなったんですけれど。大学3年の冬に、祖父が60歳のときに書いた遺書を目にして。それは、僕が生まれたくらいの頃に書いてあったものだったんです。当時は祖父は健康そのものだったのですが、その時からすでに、自分が死んだ時のことを事細かに考えていたことに驚きました。「自分が小さい頃から慕っていたあのじいちゃんは、ずっと心のどこかに“死“を意識して生きていたんだ。」って。内容というよりは、遺書を書いていた事実そのものを知ったことによって、僕の人生観が変わったんです。「人生って、どういうものなんだろう?」と考えるようになりました。これから何を考えてどう生きていくのか。就職活動をする上で仕事についても考え、いろんな想いが相まっていたときに、東京のデパートを歩いていて出会ったのが、札幌の職人さんでした。
指物との出会い。根源にあったのは懐かしさ
───そうだったんですね。自分の手で形にできるものづくりの魅力に気づき、素材が木に変わっていったという。
酒井さんはい。当時は卒論の作成から逃げて、木工の世界に何があるのかを国立国会図書館で勉強していました(笑)そこで調べているうちに、「指物」の分野を知って。枘(ほぞ)*とか仕口(しぐち)*など伝統的な手法に興味を持ったんです。漠然とですが、職人の後継者不足で伝統産業が衰退していることは知っていました。だから僕は、指物の技術を受け継ぎたいと思ったんです。
───指物に出会ったときって、どんな感覚でしたか?
酒井さん今思えば懐かしさがありました。僕は子どもの頃からブロック遊びが大好きだったんです。小学校の高学年まで遊んでいたくらい。僕が幼い頃に触れてきたものに、指物は似ているなと思いました。特に、釘を使わないでさし合わせるところ。単純に、釘を使わないで組むということがスゴイ!と思いましたし、いろんな種類の技法を要所によって使い分ける。これは木工の究極だと感じました。
───原体験を通じた懐かしさがあったのですね。元々は別の分野も検討されていた中で、なぜ跡継ぎ不足の指物職人になろうと思われたのですか?
酒井さん自分にしかできないことがしたいと思ったからです。そこで、興味を持った職人さんのところに、「弟子入りさせてください!」とお願いしたら、まずは職業訓練校で1年間くらい勉強してくるといいとアドバイスをもらいました。そこで、本格的に職人を目指すために、大学を卒業間際に辞めることにしたんです。
───卒業間際だなんて…思い切った判断ですね。酒井さんの意志を感じるエピソードです。職業訓練校では、どのようなことを学んだのでしょうか?
酒井さん職業訓練校には、大学を辞めた年の4月から入学しました。場所は京都の福知山市で、家具や木工に関することを全般的に広く浅く習いました。そこには、全国各地から様々な世代の方が集まっていて。倍率も3倍から4倍と言われていましたね。ここで学んだことが、後の修業時代にとても役立ちました。
とにかく指物がしたい!強い想いから木工の世界へ
酒井さんそれが、全然そうではなくて。全国に指物の産地があるので、そのどこかに引っかかるのであれば良かったんです。とにかく、指物がしたいという想いでした。京指物や江戸指物など、全国各地を対象にしらみつぶしに調べて。「雇い口はありますか?」と片っ端から電話をかけました。ほとんどが即答で断られましたが、唯一手応えがあったのが加茂の桐箪笥屋さんだったんです。
───新潟県加茂市と言えば、桐箪笥の名産地ですよね。ほかのところは、無理だと言われたのですか?
酒井さんそうですね。どこも電話口で「余裕がない」と断わられてしまって…。与える仕事がないし、雇っても食べていかせることができないとおっしゃっていました。その中で、加茂の桐箪笥屋さんだけが「考える」と言ってくれたんです。その後、熱意が伝わったようで、そこで修行をすることになりました。
───酒井さんは、周りが就職活動をしているときに、当初志望していた分野とは違う道に進もうとされていますよね。迷いなどはなかったんでしょうか。
酒井さん全くなかったですね(笑)就職活動のときも、リクルートスーツを着て集団で就活するのが理解できなかったんです。内定を何十社もとることには、僕は興味がありませんでしたね。
───なるほど。実際に弟子入りされてからは、どんな時間を過ごされていましたか?そもそも「考える」という言葉が一番手応えがあった返答だなんて、弟子入りがいかに難しいかを物語っていますよね。
酒井さん弟子入りは、押して押してなんとか許可してもらったんですよ(笑)しかも、いざ飛び込んでみると、自分が思っていた世界とは違っていて。加茂の桐箪笥の作り方は分業制なので、それぞれが特定の工程を担当します。分業の「サラリーマン職人」みたいな感じですね。
───伝統工芸の世界には、工程ごとに分業されているものも多いですよね。職業訓練校で学んだ技術は、すぐに役立ちましたか?
酒井さん最初は見よう見まねで作業していましたが、職業訓練校で一通り木工の基本が入っていたことで、見ているだけで何が間違っているのかなどの違いが分かりました。おかげで先輩の職人さんからも「覚えるのが早い」と言ってもらえていましたね。職業訓練校には、確実に行った意味がありました。
辛かった修業時代は気づきの宝庫
───業界としては、職人さんは年功序列というよりは技術力が判断基準なのですか?
酒井さん自分の望み通りの工程を任されるためには、周囲が認める技術が必要なわけです。だから、生涯を木取りで終える人もいます。しかし、それぞれが各工程のプロフェッショナルなので、立場は並列なんです。ただ、他の工程がわからないので、喧嘩になることもあるそうです。僕がいたところは、木取り職人3人、組み立て職人2人、塗装職人1人の構成でした。その後、経営が悪化してリストラがあり、ベテランの職人さんと僕が残されたんです。今思えば、なぜ自分が残されたんだろうと疑問もありますが…人手が足りなくなったことで、職人の仕事だけでなく営業もさせてもらえました。社長には、作るだけじゃなく色々なことがしたいと言っていたので、お客さんへの納品や、デパートなどの催事も担当しました。お客さんと相談しながら箪笥を作る経験もできました。最後の2年間は、念願の組み立ても任せてもらいましたよ。
───そのご経験は、独立してからとても役に立ちそうですよね。 自分でできる仕事が増えたことで、酒井さんご自身にはどんな変化があったのでしょうか?
酒井さんものづくりに対する姿勢が、経営者目線へと変わりました。それまでは一職人でしたが、営業して取ってきた仕事を先輩の職人さんに指示したりと、自分が回すようになって。「中途半端なことをしても身にならないぞ」と周りの職人さんには言われましたが、独立することが目標だったので、何でもしなきゃって。修業時代に受けたいろんな影響や刺激が、今こうして酒井指物を切り盛りする上で役立っています。
古いものだからこそ、想いがつながる
酒井さんどこの箪笥屋さんも「修繕に特化する」ことはしていませんでした。僕はそこに可能性があるんじゃないかと思ったんです。これに気づいたとき、いつ独立するかを具体的に考えるようになりました。新品はあくまで、言われれば作るスタンスでいます。だから、今後も基本は直していきたいですね。箪笥の直しは、木材が少なくても手間さえかければできるんです。現在の世間の需要も、新品をつくるよりも古いものを直すことにあると感じています。かつての僕が魅せられた桐箪笥に、付加価値をつけていきたいんです。古いものは想いをつなげるし、桐箪笥そのものに価値があります。だから、桐箪笥の良さを再発見できるような修繕ができれば、持続的なものづくりになるんじゃないかと。
───独立をするにあたり、新潟の中でもどうして燕三条を工房の場所に決めたのですか?
酒井さん独立は紆余曲折ありました。まず、加茂からは出たいと(笑)産地でやるのは、競争になってしまうのでやりにくい気がして。最初は、住宅がたくさんある新潟市を検討していました。ちょうど、居抜きの木型工場が貸し物件で出ていたんですよ。片付けもままならない状態だったので、しばらく大家さんと片付けているうちに思い出の品がいっぱい出てきて。大家さんの情が出てきたのか、最終的にはダメだと言われてしまいました…。4月から借りる予定で2月から始めたことが、3月31日に白紙に。
───え〜!そんなことがあったんですね。
酒井さんヒドイですよね(笑)引っ越しも決めていたので、職場の目処もなければ住む場所もなくなるという感じで、凄く切羽詰まってしまって。ストレスから些細なことでぎっくり腰をするくらい。そこで、今の場所を見つけたんです。最初は何もない倉庫でしたが、しばらく住みながら、いろいろ使えるように環境を整えることになりました。
燕三条で独立開業。妥協しないものづくりの強さ
酒井さん最初に手がけたものは、箪笥の修理や再生の仕事じゃなかったんですよ(笑)知り合いが頼んでくれた、ちゃぶ台でした。初めの年は仕事があまりなかったですね。ここ1年くらいでやっと回せるようになってきました。
───そうだったんですね!現在は、どんな方からお問い合わせがあるのでしょうか?お客さんは「こういうものがつくりたい」というイメージがあるものかも気になります。
酒井さん最近は、全国各地からご依頼を頂けるようになりました。サイトを見て、メールでのお問い合わせが多いです。「長く使っている箪笥が古くなってきたので修理して欲しい」とか、「部屋のサイズに合うように小さく作り直して欲しい」というオーダーを頂きます。基本的には、お客さんが要望をお持ちの場合がほとんどですね。きちんとお直しができるかどうかは、実物を見ないと分からないので、ヒアリングは時間をかけてじっくりします。最近では、他の打ち合わせなども兼ねて、依頼主のいる神奈川県まで箪笥を見に行きました。
───新潟と神奈川だと、なかなかの距離ですね…!直接顔を合わせての仕事を大事にしていることが伝わってきます。修理や再生は、ゼロからのものづくりとは違って、依頼者の想いに触れながらつくることだと思います。そこで大事にしていることはありますか?
酒井さん想いの部分では、新しい箪笥を作るときと変わりはないですね。簡単に妥協しないことを大切にしています。もし妥協するとしたら、「最高の妥協点」を探すこと。これまで使っていたものだから、箪笥には細かい傷がたくさんあるんですよ。どこをどれくらい直すかは、感覚で判断するしかありません。お客さんは、新しくしてほしい反面で面影を残してほしい。その加減は、今も探りさぐりしています。
目指すのは桐箪笥文化の復活
酒井さんそうですね。箪笥をもっと身近に感じてもらいたくて。古い箪笥屋さんにもらった使い道のないような古い金具を整理していたら、再生してアクセサリーにしてみたらいいだろうと思いついたんです。古い良いものを伝えたいし、ありふれたものじゃなく自分だけのものを持つ機会も作りたくて。先日『三条ものづくり学校』さんで行ったワークショップに参加してくださった方々にも喜んでいただけました。
───古いものに良さがあることを伝えているんですね。ところで燕三条の周辺は、ものづくりに携わる事業者さんって多いですよね?
酒井さんそうなんですよ。ここを選んだ理由を聞かれたときに、最初は「たまたまなんです」と言っていたんですけれど。燕三条は、ものづくりの町。最初は職人気質が強くおっかない市民性のイメージでしたが、実際に来てみると、道具屋さんもいっぱいあるし問屋さんも顔が知れていて、横のつながりがあります。そのつながりで仕事をいただくことも。よそ者意識がないというか、最初から受け入れてくれた実感があります。結果的に、ここに来て良かったと思います。
───どうして三条の地域に、ものづくりをする人が多いのだと思いますか?
酒井さんつながりや、同志の意識があるんじゃないでしょうか。作るものは関係なくて、ものを作る人だからこそ気持ちが一緒なんじゃないかな。だから共感する人が多いんだと思います。純粋な欲というか。その中で、妥協したくない、こだわりのある人が多いから、周りからするとものづくりのイメージがあるのかもしれませんね。
───地域の中でのつながりがしっかりとあるけれど、外から来た職人を受け入れてくれる土壌もあるんですね。酒井さんご自身が、今後目指していることはありますか?
酒井さん目指すのは、桐箪笥文化の復活です。もっと極端に言えば、婚礼箪笥。嫁入り道具としての桐箪笥を復活させたいです。そこには文化がありますし、着物も付随してきます。受け継いで直したものを、嫁入り道具にしてもいいと思うんですよ。そうすれば、ものだけでなくて想いも重なった新しいものができます。最終的には、加茂の産地活性化までいければ一番いいなと思います。それを、敢えて外からやっていくのがいいと思うんです。
ものづくりは基本的・根源的な欲求
───独立されるときに、ビジネスとしてどうやったら成り立つかを考えられていたとお聞きしました。経営面で気をつけていることはありますか?
酒井さんまずはお金ですけれど…。誰もしていない、他にはないものを目指しているので、他とは競争しないと決めています。競争が生まれにくいものを目指しますし、技術はあると思うので自分の存在を武器にしていくことだと思います。小さな市場かもしれないけど、その市場を広げていければいいですね。伝統は、その時代に受け入れられてこそ、つながって残るものだと思います。過去を引きずるだけでは今に合わないというか。人間も変わっていきますよね。技術は活かして当たり前で、その時代に合わせてつくることも必要なんじゃないかな。
───ものづくりについては、どう考えていますか?
酒井さん基本的な欲求ですよね。純粋なものだと思います。自分の子どもを見ていても、何も教えていないのに無意識に何かしら作って遊んでいる。
───根源的な欲求とも言えますね。手を動かして作っているというか。今の社会を見ていると、文化がなくなったときに新たに文化を作るのは、すごく大変ですよね。
酒井さんそうだと思います。一回落ちたものを、またあげるということですからね。
───落ちたもの同士を組み合わせても、落ちてしまいますよね。そこに、新たに何かを加えないといけないので、非常に難しいと思います。
酒井さん伝統工芸品になっているものって、かつての必需品や日用品なんですよね。今では美術品になってしまっていますけれど。だから、技術を残していくためには、それを活かした必需品をまた作っていかないといけないと思います。
───実際に使える、必要なものを作るということですね。それは今まさに酒井さんがされていることにもつながっていると感じます。
酒井さんそうですね。そんなに値段は安いものではないですけれど。僕も、指物という伝統技術をどう活かせるかを常に悩んでいます。家具や木工に限らず、金属の指物ってどんなものなんだろう?とも思いますし。釘を使わないで組み合わせる技術で、何かできないかってずっと考えています。
───お話をずっと伺ってきましたけれど、なぜそんなにも「指物」にこだわりを持ってものづくりを続けているのでしょうか?
酒井さん単純に面白いなと思ったからです。指物に出会ったときに、いろんな形で組み合わせて形になっている。それにワクワクした、子どもの頃の気持ちと同じなんです。
───その想いが、今とこれからにつながっていくんですね。酒井さんのお仕事は、新しいものを選ぶだけでなく、古いものを見直すきっかけにもなると感じています。目の前にある「もの」がどこでつくられ、人の暮らしの中で変容していくのか。もしかすると、ものが失われることは文化が失われることなのかも…。受け継いでいくのは、物質としての「もの」だけではなく、作った人や使ってきた人の想いも共にあるのだと感じました。消えるものと新しく生まれるもの、その間をつなぐ人や創造性。これからの日本とものづくりのヒントが、たくさん詰まったお話でした。酒井さんの、ものづくりのこれからも楽しみですね!
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