再現するのは、使い慣れた「感触」。
野鍛冶のつとめとは、使い手の希望にそのまま応えること。近藤製作所
ここは、鍬を製造し、新たな命を吹き込む工場でありながら、長く使い込んだ鍬を元の形そっくりに修理して再現する、鍬の再生場でもあります。
一口に鍬といっても、その使い道や機能、形状は実にさまざま。農作業をする人の数だけ鍬があるといっても過言ではないほど、数多くの鍬が存在します。
「この形じゃないと使えない。」
そんな声が農家さんから上がるのも不思議なことではありません。
しかし、どれだけ丁寧な仕事をしようと、時代の変化は容赦ありません。
農機具の機械化により、鍬の需要は右肩下がりになるばかり。
あらゆる鍬の修理を柔軟に対応してきた5代目近藤一歳さんと、次世代を担う息子の孝彦さん親子にお話を伺いました。
津々浦々の農家さんから寄せられる「これじゃなきゃだめ」に応え続けて
刀鍛冶とは、武士が台頭する時代から専門的に日本刀を作ってきた鍛冶屋のことを指すのに対し、野鍛冶は包丁や農機具など、日用的に用いる刃物を作る職人のことを言います。
野鍛治で扱うものの中でも、鍬は全国各地の作物や土の固さなどの風土に合わせて、都度最適な形に作り変えられてきました。そのことから、鍬頭のバリエーションは土地の数だけあるとも言われています。ここ近藤製作所でも、北は北海道から南は九州まで、これまでに1000種類を超える鍬を生み出してきました。
先端が鋭利に尖ったものや、四角ばった角付きのものから、肉厚で重厚感のあるもの、女性でも扱いやすい薄くて軽い素材で作られた鍬まで、「鍬」と一括りにするのがはばかられるほど、あらゆる大きさや素材のものが並びます。
これだけの種類を作ることができたのはのは、鍬を使って耕される畑や土質を理解して仕立て上げてきたからこそ。どれも、使う人のことを一番に考えた、それぞれの用途にぴったりと寄り添う道具です。
道具が高価だった時代には、農家さんに鍬を貸し出し、そのお礼に農作物をもらって暮らす。農閑期には預けた鍬を修理し、また来年も貸し出す。金銭を介さず、手元にあるものでお互いを助け、思いやる相互扶助的な暮らしだったそうです。
そうした時代の波にのるようにして、近藤製作所はいち早くウェブサイトを開設。遠方地域からの要望にも広く対応する受け皿を整えたそうです。
しかし、全国から修理を受け付けるとなれば、それだけ鍬の種類もふえるということ。風土や暮らしさえも異なる地域の鍬をどのようにして修理していくのでしょうか。
「たとえば、東京周辺(東京、神奈川、千葉等)は土質が硬いため、鍬は厚みのある、重たいつくりのものを。一方、土の柔らかい兵庫県周辺の鍬は薄く、軽いつくりに。
必要な情報は、そうした耕作地域の土質だけではありません。かつてその地域で鍬の面倒を見ていた野鍛冶の作風や、その地で長年農業に携わってきた人の経験なども鍬頭の形状に大きく影響します」
関西では備中(びっちゅう)、関東では万能(まんのう)、福井では三ツ鍬(みつくわ)や四ツ鍬(よつくわ)といった別称があります。地域ごとに必要とされる機能が異なることから、それぞれの特色が強くなり、呼び分けられたと考えられています。
「60年、70年以上前に作られたものもザラにありますよ。仮に私たちが気を利かせてちょっとでも形を変えたら、それはありがた迷惑になってしまいます。返品されかねません。使う人たちは、道具に変化を求めていないんです。鍬を通じて、その風土にあったやり方で今までやってきているわけですから。」
過不足のない仕事が、野鍛治に求められる最大の職能なのかもしれません。
分業制で作られる近藤製作所の鍬
周辺は親子で営む鍛冶屋がほとんどなので、比較的大所帯の工場です。鍛造・研磨・焼入れと、各分野のエキスパートである職人が分業制で作業しています。
鍬には、正確に作らなければいけないポイントが3つあると言い、ひとつめに「柄と刃本体の角度」、ふたつめは「刃の先端部分の曲がり具合」、そして3つ目は「刃全体の反りの大きさ」。
これらを寸分の狂いなく作るために、そのほとんどを手作業で行う必要があります。
大まかな形に整えられた鉄の塊を熱し、型にはめない自由鍛造で鍬頭の形状を再現していきます。
鍛造で成形された鍬の形を、職人さんの目と感覚を頼りに美しく整えていきます。
長年の勘がものを言うため、発注された全ての鍬頭ひとつひとつを、近藤さん自らが焼入れをします。
その後、ゆっくりと時間をかけて冷やすことで、より強靭な刃に仕上がります。
似て非なる、精密機械と手仕事のものづくりの世界
孝彦さんは、大手刃物メーカーに勤務したのち、27歳で近藤製作所に入社。
それまでお父様からは、家業を継ぐことを進言されたことはなかったそうですが、なぜ家に戻ることを決めたのでしょうか。
100年以上も続く鍛冶屋の長男として生まれたとはいえ、いわゆる“跡取り”として育てられたのではないと話す孝彦さん。
「新卒で刃物のメーカーに入社して、NCという精密機械を使ったものづくりをどっぷり9年間やってきました。その後、30代を前に転職を考えて、職場の後輩と職業案内所へ行ったら、ウチの求人が出ていて。『先輩、実家入ればいいじゃないですか!』って(笑)。」
孝彦さんが育った実家と工場は、離れた場所にあったため、鍬を専門に作る会社が家業だったことさえ実はよく知らなかったそう。
「親父は今でも家で仕事の話を一切しませんし、これまでに継げと言われたことも一度もなかったですね。鍬って今後売上が伸びるようには見えないじゃないですか。だから親父も継ぐようには言わなかったのかなと、いざ一緒に仕事をして思いました。」
鍬作りの職人として近藤製作所で下積みを始めた孝彦さん。今まで携わってきた機械でのものづくりと、手仕事とのギャップに、最初は隨分戸惑ったと言います。
大きく見れば、前職と同じ刃物の製造業。とはいえ、近藤製作所のような職人の技術によって生まれる少量多品種のものづくりは、孝彦さんがそれまでやってきた機械量産製品のあり方と大きくかけ離れたものでした。
注目されたからといって、儲かるわけじゃない
「難しいのは、こうやって大々的にメディアに取り上げてもらうことや関心を持ってもらうことと、鍬の売上が比例しないことなんですよね」。
知名度が経営を楽にしてくれるわけではない。すこし有名になったからと言って、状況が急激に変化するわけではないことを孝彦さんは身をもって実感したといいます。
これからの近藤製作所を引っ張っていくことになる孝彦さん。この先、どうやって生き残るかを思い悩んだ時期もあったそう。
「あるとき知り合いに『人生は限られているんだから、鍬だけに固執せず、新しいものを作ることを考えてみたら?』と言われて。確かにそうだなと思ったんです。鍬作りから手を引くのではなく、この技術を他にも活かすことだってできるんじゃないかなと」。
新たな発想の追い風になったのが、中川政七商店との出会いでした。
そうして生まれたのが、鍬の技術を活かした園芸用品です。
中川政七商店のスタッフから提案された言葉に、近藤親子も共感したと言います。
“鍬屋がつくる園芸道具”
“鍬と同じ楕円の握りやすい持ち手”
“贈り物としても喜ばれるプロ仕様”
実際の商品につけられたキャッチコピーは、「趣味には、多少高価でも良いものを使いたい」と考える消費者の心をワクワクさせてくれるものでした。
そんな孝彦さんの心持ちを、先代でもあるお父様はどう捉えているのでしょうか。
普段、仕事の話はほとんどしないという近藤さん親子ですが、それぞれの想いは通じ合っているようにも見受けました。
これまで、分業に専念してきた職人さんたちは、それぞれが突出したスキルと知識を持っているスペシャリスト。みんなで力を合わせれば、ひとりでは生まれなかったアイデアの商品も出てくるはずだと孝彦さんは続けます。
「他の刃物産地と三条の違いは、各工程の職人が一箇所の工場に集まっていることです。せっかくここに十何年もいてくれるんだから、従業員が『自分はこの作業のことしか知りません』というのは、僕が嫌だなと思って。自分自身、会社にいた頃にいろんな工程を担当させてもらって知ったことがあるからこそ、見えてきたものがたくさんあったんですよね。」
数々の要望に応えてきた「野鍛冶のDNA」が生み出すもの
野鍛冶が作る、という言葉はどのように現代の消費者に響くのでしょうか。
「職人同士がお互い何をやっているのかが見えてくれば、共通言語が生まれる。そこから余裕が出てくれば、新しいものが生まれる」。
工場内で隔絶されていた技術がつながりあい、一体となった技術は地域を越え、ひろく現代の日常生活で活用されます。
100余年の先にある、新たな歴史がはじまろうとしています。
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