腕で成り上がった三条の鍛冶職人が世の中に伝統の和包丁を届ける
三条市における鍛治の歴史は、江戸時代はじめ。信濃川と五十嵐川の度重なる氾濫で生活に困窮する農民を救済するため、当時の代官が農民に副業として和釘づくりを奨励したことがはじまりとされています。
古くから鐵を叩き、命を吹き込んできた三条の鍛治職人。和釘から鍬や鎌、鑢(やすり)や鋸(のこぎり)などを経て包丁へと製品の幅を広げながら、鍛治の伝統は受け継がれてきました。
そんな鍛治の伝統を守り、令和の時代に昔ながらの和包丁を愚直に作り続ける職人がいます。
吉金刃物製作所(以下、吉金刃物)の4代目山本和臣さん。山本さんが鍛冶場に立つ姿は、時代を超えて「職人」というものの真の様を物語っているかのようです。
刀匠から受け継いだ吉金の血筋
世界に認められた三条市の鍛治職人・岩崎重義氏にそう言わせるほどの実力を持った刀匠。その家こそが、吉金刃物のルーツです。
吉金刃物を創業した吉田金吉氏は、鍛冶屋であり刀匠の家に生まれました。自分で事業を興す際、本家から独立し、三条市下田島で吉金刃物製作所を設立したといいます。
しばらくの間、問屋からの受注をこなしていた吉金刃物。初めての自社製品を作ったのは、1919年のことでした。
こうした時代背景のなか、3代目吉田恒雄氏のときに初めてドイツの展示会「アンビエンテ」へと出向きました。当時包丁メーカーはほとんどいない中での出展で、商売の話が多く舞い込んできたといいます。
しかし、それから5〜6年ほど経ったころに、吉金刃物は「アンビエンテ」への出展を取りやめてしまいます。
「商談件数が多すぎて、包丁が半年・1年待ちの状態にまでなってしまいました。それで、思い切って出るのをやめてみると、今度はお客さんが三条にまで来るようになりましたよ。」
このエピソードが物語るほど、確かな品質で世界に着実にファンを獲得してきた吉金刃物。そうして、2013年に山本さんが4代目に就任することになったのでした。
鍛冶屋以外の職から、包丁屋の後継候補へ
「母親の実家が、吉金刃物だったんです。母が行商に出ているときによく工場に預けられていました。当時は、ダメになった包丁を渡されて一生懸命研いでいましたよ。一度研いで刃が綺麗になったら、刃を落としてもらってまた研ぐ。子どもが工場内を走り回ったら危ないから、何かしらやることを与えていたのでしょうね。」
「最初の勤務先は、ゴルフ場。高校は2年で中退し、父の兄貴が働いていたので勧められて行きました。当時はキャディさんを教育したり、プレーの進行に合わせてタイムマネジメントを担当したりといった仕事が中心。ゴルフ場で働いていると、自分の親父くらいの年齢の友達が多くなるんですよ。そういった人と一緒に飲むなかで、『うちに来るか?』と声をかけてもらい、ジュエリー屋の製造部門に転職しました。しかし、人間関係の板挟みに合い、退職しました。その後は宅配業へと転職しますが、雪国新潟の凍りついた道路で古傷を痛めてしまい、ゴルフ場時代の古傷と相まって、仕事が出来なくなってしまいました。」
こうして3つの職を経て、ようやく鍛治職人の道へと歩み始めます。
「最初は親からの勧めでした。『(母方の実家である)吉田さんのところ、後継ぎがいないから行ったらどうだ?』と。子どものころから鍛治の道を歩むとは思っていたので、違和感はなかったです。」
しかし、小さいころに工場で遊んでいたとはいえ、鍛治の知識は全くありませんでした。それでも親方は分かりやすく言葉で教えてくれるわけではありません。
「親方は、ただ『見てろ』と言って、包丁を作るばかり。つきっきりで教えてくれる訳でもないし、最初は何を見れば良いのかすら分かりませんでした。出来ない自分に腹が立って、休みの日にも工場に入って練習していました。」
バイト先で扱っていたのは、刃が両面に付いている菜切包丁。当時、吉金刃物では刃が片面にしかない出刃包丁を扱っていたので、新しい経験でした。しかもその会社の菜切包丁は特に薄い刃で、かなり難しい作りで苦労したといいます。
昼は吉金の工場。夜は他の工場。働き続けて3年あまり。徐々に包丁の扱いには慣れてきたものの、仕事に面白さを見出せるようになったのは、さらに5年ほど経ったころでした。
「包丁作りの面白さを感じるようになったのは、自分で作ったものが売れたときです。当時は自ら料理屋さんなどに売りに行っていました。当然、最初は突き返されましたが、そのうち三条市内の小料理屋さんが買ってくれて。すごく嬉しかったのを覚えています。今でも私の包丁を買ってくれているんです。」
包丁作りに慣れ始めた山本さん。高度経済成長期、まわりの工場が機械プレスで打ち抜き、安く早く安定した供給を追い求めて機械化を進めるなかでも、山本さんは鐵を火で熱し、叩いて形を作る、昔ながらの鍛造屋の製法を守り続けてきました。
火を焚べ、鉄を叩き、本物の包丁をつくる
そう山本さんは言い、鍛冶の工程を見せてくれました。
職人は伝統的な和包丁をつくるため、一生涯技術を追い続ける
新人時代に他社で修行した山本さんは、他の鍛冶屋とも交流を図ったり、鋼を叩く様子を見に行くなど、横の繋がりを意識して他者から勉強することも多かったといいます。
「他の職人の包丁の作り方を見て、親方から教わったやり方を変えたこともありました。」
「技術に終わりはありません。同じように作っていても失敗するときは失敗する。100%はありません。常により良い包丁を作るために技術を追い求めていくのが、職人の生き方。年齢は関係なく、良いものは吸収する。それが進歩になっていくんです。」
これからを担う若手に足りない、見て盗む力
「今の若い人はよく『教えて欲しい』といいますが、『教えたらできるようになるの?』と問いたいんです。それだけじゃ出来ないでしょ。それなら見て盗めと言いたいですね。自分はハンマーが叩く音を聞いたりして、音の違いなどを聞いて覚えました。そうやって自分で考えて盗んでいって欲しい。」
「言葉をそのまま受け取るのではなく、その言葉のなかに何が潜んでいるのか、言葉の裏で何が言いたいのか。その先を見る必要があると思います。今はそこまで考えられる人が少ないような気がしますよね。」
取材中、山本さんが鍛造の工程を見せてくれたときも若い職人が山本さんの技を盗もうと周りに集まり、みんな真剣に自分の目で追っていました。
「私はものづくりの現場で育ってきました。しかし、今の若者はそういう環境下で育ってきた人は多くありません。環境面で難しいようであれば、小さい頃からプラモデルや模型など、自分でものづくりをする環境を親が用意してあげることが大切です。そうするとものづくりの楽しさを知ることができるし、興味も湧くのではないでしょうか」と語ります。
長い歴史を背負う覚悟を持った後継がいない
「あいつに任せたら終わってしまったというよりも、自分で締めたといわれるほうが良い。」
そう語る山本さん。それでもどこか悔しそうな表情を浮かべているような気がしました。
長年、伝統の製法を守ってきた吉金刃物。その「本物」に触れた私たちは、後継者が現れるのをただただ待つばかりです。
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