2020.9.11 UP

越後三条打刃物の原点はここにあり!技術に科学の裏付けを―三条製作所

新潟県三条市。のどかな田園風景に佇む大型工場の裏手にひっそりと一軒の工房がある。三条製作所、1947年に創業した剃刀(かみそり)鍛冶屋だ。
創業者である岩崎航介氏は、当時職人の手腕と勘頼みだった鍛冶の世界に、顕微鏡による金属組織の科学的分析を行う“冶金学(やきんがく)”を取り入れた。それは後に、大量生産による痛手を受けた越後三条の打刃物業界全体を盛り上げる、起死回生の一手にも繋がるのだった。

水落(みずおち)良市氏は、産地を救うほどの技術を当時から変わることなく継承する三条製作所を支えるひとり。創業者航介氏の息子であり越後鍛冶として国内外にその名が知られる岩崎重義氏の弟子でもある。

今や三条製作所の剃刀の注文は向こう3年待ち。簡単には手に入らない代物となった。替え刃の剃刀が主流の今の時代、なぜこうまでして求められ続けているのか。

その他の鍛冶には目もくれず、剃刀鍛冶一本で勝負してきた三条製作所の歴史を振り返りながら、冶金学と鍛冶技術の合わせ技について話を伺った。

 

三条製作所の工房

 
 

冶金学の第一人者が始めた鍛冶の道

三条製作所の創業者、岩崎航介氏は刃物や金物を取り扱う問屋の生まれ。問屋では主に輸出品を扱っていたが、ドイツ製品との市場競争に敗れ、家業が大きく傾いてしまう。

「日本には世界に冠たる優れた日本刀があるにもかかわらず、ドイツの製品に負けてなるものか」

そう思った若き航介氏は、日本刀を研究し始めたと言う。日本刀に関する古い記録文献を読み解くため、東京帝国大学文学部国史学科へ入学。学業と並行して、全国の刀鍛冶を巡り、刀の研ぎや鍛法を自分の目で見て学んだ。製法をより深く知るために、卒業から間を空けずに工学部冶金科に再入学し、刀の材料である玉鋼の研究も行った。ドイツ製品に勝る刃物をつくりたい。その一心で、知識と技術の両方を磨いていったのだ。

 

壁に貼り付けられた写真が工場の歴史を物語る
それから航介氏は三条製作所を創業するのだが、実はある悩みを抱えていた。「自分が鍛冶をするなら、何を作るべきか?」刃物と一口に言っても刀、包丁、鉈など様々な種類がある。その中で航介氏が注目したのは剃刀だ。剃刀はデリケートな人の肌に触れるため、作りの良し悪しが誰にとっても一目瞭然。だからこそ、刃物の中でも製造が一番難しいと考え、勝負に出たのだった。

 

三条製作所の剃刀

 
 

大量生産の流れに逆らった一つの希望の光、冶金学

 そもそも冶金学とは、金属を合金にしたり、加工する原理や方法、技術などを研究したりする学問のこと。大学で金属顕微鏡を用いた金属組織の科学的分析の研究を行ってきた航介氏は、それを打刃物の製法に取り入れ、それまで職人の技術と勘頼りだった鍛冶の世界に新たな風を吹き込んだ。時代は第二次世界大戦終戦まもなくのこと。大量生産・大量消費の時代を迎え、次々と手仕事は機械に取って代わられた。そんな中、航介氏が持ち込んだ、職人の技術を活かす科学的アプローチは三条の鍛冶職人の心に響いた。今では三条の鍛冶屋で金属の組織を見るための顕微鏡を持っていないところはないくらいだ。

 航介氏の冶金学は国にもその功績を認められ、後に正倉院の刀剣調査員を任命されることとなる。

 

 

三条製作所には分かりやすい位置に貼り紙がしてある。そこには炭素の違いによる、金属の分類が記載されている。

 

 

それによると、鉄と鋼の大きな違いは含まれる炭素の量にある。炭素量が少ないものが鉄だ。炭素量が増えると、強度が増し硬くなる。しかし一方で、炭素量が多いと鋼はもろくなり、耐久性を超える力が加わると折れるのが難点だ。そこで日本剃刀は鉄と玉鋼を貼り合わせることで、強度と粘り強さの両方を併せ持つ刃物ができあがった。ここでもまた、航介氏が学んだ冶金学が活かされている。

 

 

 
 

研ぎが命の剃刀鍛冶

わたしたち取材班は、三条製作所で水落氏に出迎えられてすぐ、剃刀製造の流れを教わった。三条製作所が他と違うのは、「研ぎ」までの工程をすべて自分たちで行っていること。包丁のような刃物の研ぎ職人は他にもいるが、人の肌に触れる剃刀の研ぎはとても繊細な作業。今では、同じような仕事ができるところはほとんどないという。

水落さん「昔は床屋さんが研ぎも行えるプロだったんですが、今は替え刃が主流ですからね。先代から研ぎを習わないまま、跡を継いだ床屋さんもいらっしゃるようです。」

 

笑顔で取材に応じてくれた水落良市氏
実際にどうやって作られているのか。剃刀製造の工程は大きく分けて、以下の流れで行う。

①鍛接(鋼付け)
材料である鉄と玉鋼を接着する作業。熱した鉄に接着剤*を蒔き、鋼をつける。

*接着剤…硼酸(ホウサン)と鉄粉を混ぜたもの


②鍛造
熱した金属を金槌で叩くことで、形を整えながら硬度や密度を高め、強くする。
③削り
④焼入れ
鋼の温度を上げ、一定時間置いた後、急激に冷却させることで、硬度を持たせる。
⑤磨き
⑥研ぎ
他の刃物と比べ、一番細かい作業。様々な砥石を使って一本ずつ丁寧に研いでいく。最終的にこの作業をすることで刃がつき、切れ味が抜群によくなる。

 

 

鉄や鋼をつかむハシやそれを鍛える金槌が何本もガス炉の周りに置いてある。水落氏はそれらを巧みに使い分け、鉄の塊から剃刀を形作っていく。火に入れた鉄は炉から出した瞬間から温度が下がりはじめるため、すべてが時間との勝負だ。一瞬たりとも気が抜けない。
 一連の作業の中で特に水落氏が気を張っていたのが、鋼付けのときだ。鍛接剤は温度が上がるとガラス状に溶け出し、乗せた鋼が動きやすくなるため、非常に高度な技術が必要になる。鋼を乗せる位置も肝心だ。鉄のみの部分と、鋼が入っている部分のバランスが、刃物の品格に関わってくる。

 

 

通常、本刃付けの工程をせずとも剃刀は切れる状態になっている。しかしそのままでは、少しの刃先の違いで使用者の肌を傷つけることになる。だから、顧客が安心して使用できるように水落氏は本刃付けまで行うことを決めた。

水落さん「色んな砥石がありますが、うちでは京都で採れる最高級の、砥石を使用しています。非常に細かい研磨剤が含有されていて、尚且つ研ぐ力のある砥石なんです。愛知の三河でとれる砥石も併用することで、肌当たりの気持ちよい剃刀に仕上げることができます。」

 

 

京都の砥石は愛知の砥石よりも固いため、大根おろしのように愛知の砥石を溶く。すると、まるで石鹸水のように砥石が白く浮き上がる。それで剃刀を研ぐと、砥石の細かい粒子がさらに潰され、剃刀の目が細かく研がれていくのだ。
研ぎはこれで終わりではない。拡大鏡で研げているかどうか確認をし、今度は絹の布にダイアモンドペーストを練りこんだもので研ぐ。最後の最後まで丁寧に研ぎの工程を行うことで、切れ味抜群だが肌にストレスをかけない、最高品質の剃刀が完成する。

 

 

 
 

師匠から弟子へ。受け継がれる鍛冶屋の魂

 航介氏が立ち上げた三条製作所は、息子である重義氏が受け継いだ。しかし現在三条製作所を支えるのは、血縁関係にない水落さん。岩崎さんとは一体どんな関係だったのだろうか。

水落さん「そもそも当時の私は、鍛冶屋に興味がありませんでした(笑)。銀行への就職が決まりかけていたのでそのまま銀行員になるものだと自分でも思っていたんです。そんなときに、ふと重義さんに『大学に行くと思って、4年でいいからこないか』と誘われ、その誘いにのることを決めました。」

 それから水落さんは重義氏のもと、鍛冶屋として働き始める。しかし入社して10年が経ったころ、簡単で使いやすい替え刃が流行りだし、個人だけでなく床屋も替え刃に移行したことで需要が一気に落ち込んだ。同期で入社した仲間もこのまま剃刀鍛冶をやっていてもダメだと思い、包丁鍛冶として独立していった。

水落氏は同じタイミングで、家業の金物卸業へ戻ることに決めた。しかし、ただ仕入れた刃物をそのまま販売することはせず、商品に研ぎを施すことで販売価値を上げた。そうして研ぎから完全に離れることなく、30年弱という時間を、そこで過ごしたのだった。

 

 

彼が60歳になったとき、事件が起きる。交通事故に遭ってしまったのだ。卸業者は外に出る仕事。もう潮時だと、そう水落さんは思った。

水落さん「もう一度鍛冶屋の世界でやりたいと、重義さんに会いに行きました。快く迎えてくださり、こうして剃刀鍛冶をしています。戻ってきた当初、半年間は製品を出さずに勘を戻すために金槌を叩いていました。それでもお得意様が待っていてくださり、毎月買ってくれる方もいます。そのおかげで、私は営業をせずにただ剃刀を作ることに専念できています。」

水落さんは鍛冶の世界に戻ってから伝統工芸士の試験に挑み、見事合格。71歳のときだった。十分に歳を重ねてから挑戦するほど鍛治仕事に思い入れのある水落さんは、剃刀鍛冶の今後についてどう考えているのだろうか。

 

 

水落さん「剃刀は単純な形をしていますが、非常に難しい技術を要します。残していきたい技術だと思い、伝統工芸士になりました。伝統工芸の産地は全国に約230か所あります。三条は打刃物と仏壇ですが、実は剃刀鍛冶を専業でやっているのはうちだけなんです。技術を残すためには後継者が必要ですが、どの産地も高齢化が進み、後継者がいなくて大変なところは多いです。そこで三条市では後継者育成事業として鍛冶人材の受け入れを始めたんです。私が受け入れ事業者として手を挙げたところ、入ってくれたのがよしくんでした。」

みんなから愛される、通称「よしくん」こと稲垣良博さんは、遠く神奈川から鍛冶職人になるために修行中の19歳。小さいころにテレビでみた包丁職人に憧れ、鍛冶職人の門を叩いた。高校の夏休みを利用して大阪の堺市や高知の土佐市といった刃物の産地を巡るうちに、全行程すべてに携わる三条市の鍛冶に魅力を感じたという。今は一人暮らしをしながら三条製作所で修行に励んでいる。77歳と19歳の師弟関係とは。

 

左が稲垣良博さん。良い師弟関係に見えました
稲垣さん「親方(水落さんのこと)はよく褒めてくれる方で、どんどん挑戦させてもらっています。弟子入りして2日目で鋼付けもやらせてもらいました。自分がやっている作業だけを見るのではなく、その次の作業がどうすればやりやすくなるのかが分かるようにと、作業工程をひと通り経験させてもらっている最中です。最初は言われるがまま夢中で行っていましたが、少しずつ自分ができないことに目が向くようになり、親方が作ったものと比べながら、何が違うのか、親方はどこを見ているのかを考えながら仕事できるようになりました。」

 稲垣さんの言う通り、取材中も水落さんが稲垣さんのことをよく褒めていたのが印象的だ。稲垣さんは照れくさそうにしながらも、親方である水落さんが鉄を叩くと目の色を変え食い入るように見つめていた。彼にとって水落さんの行動すべてが手本であり、教えなのだ。

 

 

水落さん「鍛冶屋はすべてを手作業で行っているため、手を抜くわけにはいきません。生産量を増やそうとすれば、それに比例して労働時間を増やさなければいけなくなります。製造でいっぱいいっぱいなので、弟子をとる余裕がない鍛冶屋は多いと思います。しかし最近では、三条へ足を運ぶ若者も少しずつ増え、再び職人に光が当たり始めています。よしくんのような若い人が鍛冶屋に憧れたり、使い手である床屋さんが研ぎを習いにきたりと、追い風が吹いているのを肌で感じます。」

水落さんは、次世代へ鍛冶屋のバトン渡す真っ最中だ。

 
 

完成しないものづくりの世界

工場を取材し、職人の技術を目の当たりにする度に感じるのは、慣れた手つきであたかも簡単であるかのように作業する職人の手さばきの正確さだ。三条製作所の土台にあるのは、岩崎航介氏の冶金学の教え。それを崩さずに作り上げてきたのは二代目の重義氏であり、その弟子の水落さんだ。
 
水落さんのもとで働く稲垣さんは、師の技術を身近で見て何を感じているのだろうか。

 

 

稲垣さん「作業で言えば単純ですが、その作業一つひとつにはいろんな視点が詰まっています。自分には見えてない視点を親方はいくつも持っています。僕は今、親方のやり方をなぞらせてもらっていますが、親方はやっていく中で答えを見つけてきたのだと思います。だから作業工程もすごく考え抜かれていて、『親方はここも見ていたのか』といつもはっとさせられます。」

正解のない、ものづくりの世界。日々職人は腕を振るい、昨日の自分と戦っている。三条製作所の剃刀が国内外で人気を博しているのは、科学的根拠に基づく技術と職人のたゆまぬ努力の結晶によるものだろう。

稲垣さん「僕も自分なりのやり方をみつけ、剃刀を作り続けたいと思います。」

次は弟子が自分の形を模索する番だ。新たな剃刀の誕生が待ち遠しい。

 
 

三条製作所 

〒955-0852 三条市南四日町2-19-19
TEL:0256-33-1361
FAX:0256-35-1304