2020.11.15 UP

空を舞う凧をひとりでも多くの人に。副業サラリーマンが凧職人として抱いた覚悟

金物の街・三条。
そんな街に「須藤凧屋(すどういかや)」と看板を掲げる老舗がある。空にゆらゆらと舞うあの凧のことだ。最近ではめっきり凧揚げをする様子を見かけない。それでも、凧はこの場所で職人の手によって昔ながらの手法で作られ、空を舞うのだ。三条の地で凧屋を営む職人は、何を考えどう生きるのか。その現場に迫る。

 

三条の凧が「イカ」と呼ばれるワケ

三条では「凧(タコ)」のことを「イカ」と呼ぶ。決してふざけているのではない。この地域では真面目に凧はイカと呼ばれ親しまれているのだ。

まず、はじめに凧揚げの歴史を振り返る。もともと凧が生まれたのは中国だと言われている。竹で骨組みを作り、絹を張り、絵や文字などをあしらっていたそうだ。

その後、日本で凧が広まったのは江戸時代のこと。当時、凧は子どもたちの遊び道具として、全国各地で親しまれるようになった。誰もがよく知る、大きな長方形の和紙に2本の足がひらひらと付いた凧は「江戸凧」。凧の定番品として知れ渡っていたのだが、実はこの頃にはなんと「タコ」ではなく、「イカ」と呼ばれていたのだ。
時は流れ、江戸時代中期ごろになると、凧揚げを禁止する条例が発布されるようになる。理由は、凧揚げのもともとの遊び方が「争いごと」に通じるからだ。凧揚げは、相手の凧を地面に落とすことで勝敗を決める娯楽だった。つまりは、勝ち負けが付くことが原因で、町人同士がトラブルを起こしてしまう懸念があるとされ、禁止されたのだ。その他にも、大名行列や通行人の邪魔をしてしまうなどの問題も挙げられていた。

贈答されたり収集したり…全国各地の凧が並ぶ須藤凧屋の天井

そこで、当時のこの地域の町人は考えた。「凧揚げが禁止されるのなら、イカではないと主張すれば良いのではないか?」と。それからこうして、一部地域では条例をすり抜けるために「イカ」改め「タコ」と呼ばれるようになったのだ。関東地方で「タコ」、関西地方で「イカ」と呼ばれ、この三条の地域以外の一部でも、その名称で今も親しまれている。

ちなみに三条は、京都大阪で生まれ発達した上方文化が強く根付いた場所だ。大好きな凧揚げのために知恵を働かせた人々の想いが、今もなお地域に根強く残っているのだ。

 

三条の歴史が生んだ、六角巻凧

三条は、古くから凧(イカ)作りが有名な街として知られてきた。江戸凧とは異なる「六角巻凧」が、長い間作られている。江戸凧と比較すると、大きさはやや小ぶりで、六角形なのが特徴。中骨(心棒)を外し横骨を中心にくるくると巻いてコンパクトに収納ができる。そして、凧としての特徴は、上空での操作性に優れていることだ。

くるくる巻いて収納もできる

六角巻凧が生まれた背景には、三条で凧揚げを楽しむ町民の思いがある。その昔、三条では、士族と町民とで凧を揚げて戦っていたそうだ。資金や人材が豊富にある士族は、お金をかけて、高く揚がる良い江戸凧を作ることができていた。凧揚げの人員も、若手人材を中心に構成。最強の布陣で、いつも町民チームを負かしてばかりいたという。

町民は、士族に勝利するために作戦を練った。資金も少なく、若手のいないチームの中で勝利するためには「小さくても勝てる凧」を開発する必要があったからだ。それに必要なのは軽くて、コンパクトで、よく揚がる凧だった。そうしてたどり着いたのが、三条で今もなお作られている「六角巻凧」だ。

六角形が特徴の三条巻凧

新潟県内で凧作りを行うことで知られているのは、見附・白根・三条の地域。その中で六角巻凧を作っているのは、三条のみだという。そして、今現在、三条には、凧作り職人が1名しか存在しない。今回の主役は、その「須藤凧屋」の須藤謙一さんだ。

170年の伝統を継いだ須藤さん

三条では、なんと370年以上の歴史を持つ「三条凧合戦」が毎年6月に開催されている。年に一度、さまざまな凧が空を舞う一大イベントだ。そして、その凧合戦の凧は全て、須藤さんの元で作られ、青空を舞う。

須藤さんが凧作りを生業とするのはなぜだろうか。どの様な生活で、どのような気持ちで凧作りと向き合っているのだろうか。

 

吹奏楽バカが凧作りを生業とするまで

実は須藤さん、つい1年前までは凧作りは副業だったのだ。「働き方改革のおかげで、副業ってしやすくなりましたよね」、ハハハと笑いながら話し出す。須藤凧屋は創業173年。三条で最も長い歴史を持つ。当然須藤さん本人も、ものづくりに興味がなかったわけではないが、家業を継ぎたいと特別感じることもなかったのだという。

「今も続けているのですが、僕、吹奏楽が本当に好きで。学生時代は吹奏楽一本の生活を送っていたので、実家で凧作りをするのも考えたことがなかったんです」。入り口近くには真っ黒なトランペットのケースがある。

自らを“吹奏楽バカ”と称する須藤さんだが、吹奏楽のみで人生を歩むことは選ばなかった。社会に出てからは、アウトドア用品のメーカーで製造に携わっていたのだという。

ものづくりと縁のない生活を送っていたわけではない。でも、機械を中心に製造する金属加工業と、手作りの凧作りとではさすがに差がある。その後須藤さんは、なぜ家業である凧作りの世界に飛び込もうと思ったのだろうか。

「継ぐつもりはなかったんです。昔から、親父をときどき手伝うくらいのもので。ただ、一度だけ、2007年の夏に、父から凧作りを教わる機会があったんですよね。『ときどき手伝う』から仕事へと変わったのがちょうどこのころ。会社に勤めたまま、副業として凧作りに携わるようになりました」

父親が息子に自らの凧作りの知恵を託したいと思ったのは、もしかしたら自身の最期を感じていたからかもしれない。年が明けた2008年1月、お父さんが逝去されたのだ。自分はたった半年前に凧作りを教わったばかりの息子だけれど、なんとかこの家の仕事を守ろうと、凧作りに勤しむ日々を送るようになった。

「ひたむきに凧と向き合って、良いものを追求する生活はすごく楽しいんです。だから、凧をこれからもずっと作っていたいなと思って。そうして、10年間ほど、本業と副業とを続けていたのですが、僕ももう歳で。体力的に、両立するのがだんだんと難しくなってきたので、凧作りだけに絞ろうと決断したんです」

吹奏楽、金属加工、凧作り。関係のないようにも見えるそれぞれは、ひとつの作品を生み出すことが好きな、ひたむきな須藤さんの性分にぴたりとハマるものだったのかもしれない。

 

すべてが手作業。凧作りに隠されたハウツー

凧は知っているものの、作り方について考えたことは無い人も多いだろう。どのような材料を使い、どのような工程を経て、凧たちは空を舞うのか。

「凧作りをゼロから完成まで工程ごとに分解すると、実は50を超えるんです。代表的な工程としては、4つ。順番にご紹介しますね」

– 和紙の糊付け
小さな和紙を糊付けしながら、1枚の大きな紙に仕上げる。糊付け用の糊は、小麦粉に似た自然由来のものを使用している。粘り気がちょうどいいのだとか。

– 骨組みを組む
凧の裏側となる面に、竹でベースとなる骨組みを組む。骨組みが凧を揚げる際のバランスをつかさどるため、実は緊張の瞬間、と須藤さん。

– 絵を描く
実は、凧の絵付けも凧職人の仕事のひとつ。テーマに合わせて依頼をもらうこともある。書き慣れたという勘亭流を書く様子はまさにお見事…。

– 凧糸を結びつける
凧の表面から、糸目の位置に糸を結びつける。江戸凧だと100本を超える糸を使用することもあるが、六角巻凧なら4本で済む。上空での操作性を考えたところにも、六角巻凧が生まれた背景が感じられる。

凧作りを行う上で肝となるのは、骨組みだと語る須藤さん。凧は、上昇気流をうまく使いながら高く舞い上がる。だからこそ、バランスの良い骨組みを組まなければならない。

この様に細かく分けると50工程もある手作りの凧をゼロから作るとなると、ひとつの凧が完成するまでにかかる期間は約3〜4ヶ月ほど。骨組みに使用する竹の棒を、骨として使えるようまっすぐに整える作業のみで2ヶ月。そして骨組み、絵付けなどをすべて手作業で行うため、効率化からは程遠い作業が続くのだ。


 

凧職人はこれからどうしていくべきなのか

それだけ、凧ひとつに長い期間を費やしているとなると、凧職人の生計はどのように成り立っているのだろうか。そもそも、安定的に収入を得られる環境は整っているのか。

毎年6月の恒例、三条凧合戦
「一番の稼ぎ時は、20の凧を作る『三条凧合戦』の前ですね。6月の第一土曜日・日曜日に開催されるので、それに合わせて年明け頃から凧を作っています。ひとつの凧を作るだけでも時間がかかってしまうので、実は、年明け〜5月頃まではほとんど無収入で。6月に向けて凧を作り、まとまったお金が入ってくるので、それを元手に暮らしています」

金銭面でなかなか安定しないことが、凧職人の大きな課題だ。そんな現状を変えていくべく、須藤さんは、凧職人としての知識を元に、新しい仕事にも挑戦していかなければならないと覚悟を語ってくれた。

「昔、父も凧職人の未来はこのままではまずいと言っていたんです。ただ、なにも変えることができずにこの世を去っていった。今その想いを聞いた僕は、できることから始めてなんとか業界を変えなければと思っているんですよね」

その変化のひとつに、郷土玩具の「鯛車(たいぐるま)」の制作があげられるという。鯛車は、張り子や木製の枠組みに、和紙で制作した鯛を取り付け、引き回す玩具だ。もともとは凧職人が制作を一手に引き受けていたが、職人の減少により、制作からは遠く離れていた。ただ、鯛車も材料は竹・和紙・染料(絵の具)と、凧とまったく同様。販路拡大のためには、もってこいの仕事だと須藤さんは考えている。

「とにかく、凧職人の存在や凧の面白さを知ってもらわなければならないんですよね。だから、今度はフランス出張だったり、凧のキャラクターを作ったり、凧揚げ体験を企画したり。職人目線、凧で遊ぶお客さん目線それぞれで、接点を増やしていきたいと感じています」


 

これからも、三条に凧が揚がる姿を見つめて

凧作りと出会って10年。ある程度の型は身についたものの、須藤さんはまだ「納得のいく凧は作れていないんですよ」と話す。それは紛れもない本心だろうし、強い覚悟の表れでもあるように感じた。

「三条凧合戦の様子を見ていると、本当に凧を作っていてよかったなあと思うんです。サラリーマンを辞めて、凧と向き合える時間がたくさんできた。今こそ、多くの人の元に凧を届ける取り組みをしていきたいと思うし、国内外共に“三条六角巻凧”を広めていきたいですよね」

新年が明けて、空をのびのびと泳ぐ凧を見ては、平和な年明けだなと感じていた。そんな正月の風景の裏にはひたむきな職人の姿があった。

「三条六角巻凧」

伝統と、強い想いを持った凧たちは、きっと来年も再来年も三条の空を飛ぶ。

 

須藤凧屋

〒955-0081 新潟県三条市東裏館2丁目2-16
TEL:0256-33-0616
https://sudoikaya.jp/