2021.8.15 UP

大量生産の時代から、一人ひとりの声を生かす商品作りの時代へ。

「モノを作れば、飛ぶように売れた」

戦後の高度経済成長期はまさしくそんな時代だったそうだ。日本のものづくりの勢いは止まるところを知らず、日本国内、そして世界へ羽ばたく企業がたくさんあった。トップ工業もそのひとつ。戦時中に戦闘機部品の加工工場から工具メーカーへと転換し、海外への販路も広げていった。

しかし、ニクソンショック*を境に、作れば売れる時代からは一変。国内のメーカーは、ただモノを作るだけでなく、製品独自の価値を求められるようになった。

その中でトップ工業は、ユーザーの声を聞き製品に反映するように。国内市場に絞り、職人に愛される工具を作り続けた。こうして、製品数を増やし、ユーザーに愛される工具メーカーへと成長を果たしたのだった。

今回はそんな経緯を持つトップ工業の代表取締役の石井真人さんと常務取締役の丸山善三さんに、工具メーカーへの転換の経緯、ユーザーの声を大切にしてきた理由、トップ工業が目指す未来について話をうかがった。

*ニクソンショック・・・1971年、アメリカのニクソン大統領が発表した金とドルの交換停止などを含む一連の経済政策。

 

左から、常務取締役の丸山善三さんと代表取締役社長の石井真人さん

 
 

建築関係の職人からも、一般人からも愛される工具を作る、トップ工業

 

 

トップ工業が製造する工具の数は、サイズ違いを含めて約2,000種。モンキレンチやラチェットレンチ、スパナ、電動ドリル用の先端工具など、建築関係で使う工具を多く製造している。近年では、職人だけではなく、一般の方が購入することも多いという。

「ずっと工具のユーザーはプロの方だけだと思っていたのですが、インターネットの書き込みを見てみると一般の方からの書き込みが多いんですよ」と社長の石井さん。

インターネットの通販サイトには、「使い勝手がいい」「扱いやすい」などの口コミが並ぶ。口コミが集まる品質の高い商品の裏には、ワンストップでの生産体制を整え、ユーザーの声をしっかり反映してきた歴史があった。

 
 

戦闘機部品の加工工場から、工具メーカーへの転身

 

 

トップ工業の始まりは、昭和14年のころ。三条の技術をより発展させようとした工業誘致既成同盟会によって、トップ工業の前身である北越機械工作株式会社が設立された。

その後、日本が戦争の道を突き進むようになると、群馬県にある中島飛行機株式会社の下請けで戦闘機の部品製造を開始。トップ工業は中島飛行機の資本導入を受け、直属鍛造工場として終戦まで飛行機部品の型打鍛造品を製造していた。

「当時の資料はほとんど残っていないんですがね、当時から燕三条は金物の町として有名だったようで、その噂を聞きつけて中島飛行機がやってきたみたいなんです。中島さんの仕事をしていた会社はこの周辺に他にもいたみたいですよ」と丸山さん。

戦闘機で使う部品の鍛造をしていたことまでは分かるのだが、具体的な製品までは分からないそうだ。

 

 

そして、迎えた昭和20年8月15日の終戦。直前にはお隣の長岡市が大規模な空襲の被害に遭い、復興には時間がかかりそうな状況だった。お金もない、土地も整っていない。そんな中でも日本が復興する未来を信じ、トップ工業は同年10月に三条に新たな工場を立ち上げた。「生きている街から立ち上がらなければ。そんな意識を持っていたのかもしれないですね」と丸山さんは当時に思いを巡らせて、そう語ってくれた。

 

 

終戦後、トップ工業は工具メーカーとして再スタートを切った。資料が残っていないため、確かなことは言えないが、丸山さんは「工具を作ってほしいと依頼があったのではないか?」と推測する。

「それまで戦闘機の鍛造部品を作ってきた工場が、戦争が終わったからといってすぐに工具を作るとは思えないじゃないですか。そう考えると、どこかからの依頼なのかなと。あとは戦後すぐに他の機械を入れることは難しい。金型を作る技術があるなら、工具を作ったらどうかと言われたのかもしれないですね」

そして、驚くべきことに終戦からわずか1年後の昭和21年には、金型から鍛造、生産加工までの一貫生産を実現させ、昭和26年にはモンキレンチのJIS規格を取得している。

 

 

戦後に訪れたのは、大量生産・大量消費の時代。モノを作れば、飛ぶように売れた。それはトップ工業が製造する工具類も例外ではなく、国内、国外にまで大量に出荷していた時期もあった。しかし、昭和46年(1971年)に起こったニクソンショックを契機に、輸出は徐々に難しくなっていく。

「為替が変わったことで値下げを要求されたのですが、それを受け入れていたのでは将来がない。ニクソンショックの前に国内に営業拠点を増やし、販売網を作っていたので、国外ではなく国内での販路を増やそうと意識を切り替えたんです」

日本全体の輸出が厳しくなると言われるなか、トップ工業は事前に関東や関西に営業拠点を構える布石を打っていたそうだ。

 

 

石井さんが社長に就任したのは、平成29年。すでに大量生産・大量消費の時代を終え、ユーザーは品質の高い製品を求めるようになっていた。トップ工業が作る工具は建築関係の職人から高い評価を得ていたが、もっと上を目指そうとしたときにユーザーの声をさらに意識するようになった。

「社長職に就いてから、いっそうユーザーの要求を意識するようになりました。何を求めているかと、逆にユーザーが求めているものが本当に役に立つのか。常に二本立てで考えるようにしています」

トップ工業の商品は、商社を挟んで金物店・工具店・ホームセンターやオンラインショップに卸される。そのため、直接ユーザーの声を聞く機会は少ない。だからこそ、トップ工業の営業は展示会など、少しでもユーザーの声を聞ける機会があれば、直接出向くようにした。

展示会では、売り上げよりも、直接ユーザーとの会話に価値を見出す。こうした小さな前向きな姿勢が、現在のトップ工業をつくってきたのだ。

 

 

 
 

モンキレンチといえば、トップ工業と言われるために

昭和、平成と工具とともに歩んできたトップ工業が、令和を迎えた今、原点に立ち戻り、「モンキレンチといえば、トップ工業と言われたい」と語る。現在は、海外製の安価な物を含め様々な工具が市場には出回っているが、その中で自社製品の立ち位置を明確にするために3年前からモンキレンチのモデルチェンジを開始した。

 

 

「もう少し安くできるのではと、2021年に新しいタイプのレンチを発売したんです。一般の人も気軽に使えるように、握ったときのバランス感覚に注力しました」

職人だけでなく、一般の人の利用も増えたからこその改良。ユーザーの声を聞き、商品に反映する。ユーザーが、職人だろうが、一般の人だろうが、関係ない。

 

 

そんなトップ工業だが、2,000種すべてを自社だけで製造しているわけではない。一部の加工は技術力の高い地域内の工場に依頼している。だからこそ、近年、地域の工場の高齢化に危機感を募らせてもいるようだ。

「お願いしている皆さんは、もう自分の工場の一部なんですよね。止められるとその工程が丸ごとなくなってしまう。世界中を探しても、ひとつの産地ですべてをまかなえる地域は少ないはず。この構造を失わないためにも、なんとか地域の工場が商売を続けられる方法を探したいですね」

たとえ、ワンストップ生産だとしても、工場は一社だけで成り立つわけではない。材料を仕入れる業者がいて、自社よりも高い技術を持つ職人がいて、商品の売り先を確保してくれる商社がいる。産地の中ですべてをまかなえる燕三条が、これからも産地で在り続けるために、どんな方法があるのか。そのヒントが、トップ工業の精神「ユーザーの声を聞く」ことに隠されているような気がした。

 

 

トップ工業株式会社

〒955-0055 新潟県三条市塚野目2190番地5
TEL:0256-33-1681
FAX:0256-34-7617
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