2021.10.15 UP

研磨の技術が掴んだ、世界が認めるカトラリー製造の道

デンマーク王室御用達のカトラリー『KAY BOJESEN(カイ・ボイスン)』や、デンマーク王室から勲章を授与された著名デザイナーのオーレ・パルスビー氏が手がけたカトラリー『ICHI(イチ)』。こうした世界の名だたるカトラリーを製造しているのが、燕市にある株式会社大泉物産(以下、大泉物産)だ。

こうした有名なカトラリーが作れるようになったのは、デンマークのデザイナー、オーレ・パルスビー氏との出会いがきっかけ。パルスビー氏は大泉物産の高い研磨技術に惚れ込むと、パルスビー名義のブランド『チボリ』をつくり、製造を大泉物産に依頼。さらに、世界的に有名なカトラリーブランド『KAY BOJESEN』を当時マネジメントしていたローゼンダール社より「製造会社を変えたい」と相談を受けたパルスビー氏はすぐに大泉物産を紹介。こうして大泉物産は、名だたるブランドからカトラリー製造を任されるまでになった。

今回は大泉物産が歩んできた歴史と、確かな研磨技術、職人を志す若者が増えるための施策を代表取締役である大泉一高さんにうかがった。

 

代表取締役 大泉一高さん

 
 

世界的カトラリーブランドに認められた大泉物産

著名なデザイナーが惚れ込んだ大泉物産の研磨技術。それはそっくりそのまま現在の大泉物産のカトラリーの特徴でもある。

 

 

滑らかな手触りが魅力の大泉物産のカトラリー。その理由は手で触れて確認する検品作業にある。通常は目視での検品作業に留めるのだが、大泉物産の場合は1本1本を手で触ってバリが残っていないかを確認する。口に入れるものなので、手で確認せずに、もし口の中が切れたりしたら大変だからだ。
このこだわりは、 パルスビー氏と出会ったころから変わっていないのだという。

 

 
 

オーレ・パルスビー氏との出会いで世界のカトラリー業界の一員に

大泉物産の始まりは、1943年。東京で彫金師として活躍していた初代・大泉清作さんが生まれ故郷の燕市に戻り、工場を立ち上げたことがきっかけだった。清作さんは宮内庁に多数の作品を納入するほど、名だたる彫金師だった。ところが、戦争が激化すると作家活動が困難となり、燕市に戻って大泉物産の前身である大泉工場を設立。プレス機を持っていたことから、戦闘機の部品を製造することになった。
 

大泉清作さんの彫刻作品
戦後、燕市はプレス機を多く所持していたことから、洋食器製造に力を入れる。大泉物産の周辺地域が、国からの支援で洋食器製造に力を入れることになると、大泉物産も大手洋食器メーカーの下請け仕事をするようになった。

「当時は今のように営業時間の制約もなかったので、遅くまで工場を動かしたり、電気が来ない日だけ休みにしたり。作れば売れる時代でもあったので、ひたすら働いていました。でも、私たちが四六時中働く一方で、メーカーさんはちゃんと休んでいる。ゴルフに行ったり、芸妓さんと遊んだり、しっかり休日を満喫していたんです。それを知って、脱下請けを目指そうと自社ブランド確立に向けて動き始めました」

 

 

燕市内のカトラリーの製造会社が自社のブランドを揃えるような流れができてきた1973年、大泉物産も自社ブランド『TRIO』を立ち上げる。女性が真珠のネックレスを掛けたイメージの『水玉』をリリースし、1984年にはニューヨークのテーブルトップショーにも初出展した。そこで出会ったのが、世界的に著名なデザイナーであるオーレ・パルスビー氏だった。

「ニューヨークのショーで、パルスビーさんが話しかけてきて。研磨が素晴らしいと我々の技術を高く評価してくれたんです。その後、日本まできてくれて、工場を見学。その間会長の家で滞在すると抹茶や掛け軸などの日本文化をとても気に入ってくれました。そして、帰るときに『俺がデザインするからお前のところで作ってくれ』とパルスビーさんが手がけるブランド『チボリ』を製造することになったんです」

 

 

世界的に著名なパルスビー氏のデザインによるカトラリーをつくるようになった大泉物産。先述のようにその後は、デンマーク王室御用達のカトラリーとして愛される『KAY BOJESEN』の製造も担当することになる。

「当時、『KAY BOJESEN』を販売している会社が製造会社について悩み、パルスビーさんに相談したみたいなんです。そうしたら、『じゃあ、俺のお願いしてる工場を紹介するよ』とうちを紹介してくれて、1991年から製造を依頼されるようになりました」

『チボリ』だけでなく、『KAY BOJESEN』の製造も始まり、軌道に乗り始めた大泉物産だったが、パルスビーが『チボリ』の使い心地がやっぱり気に入らないとのことで、1989年の発売から数年で市場から引き上げてしまった。「時間がかかってもいいから、ライフワークとして『チボリ』をリデザインしたい」と、長期に渡るリデザインへのプロジェクトがはじまったのだ。

 

 

「パルスビーさんが亡くなる2年ほど前、『俺もぼちぼち最後だから、もう一度日本で商品を作りたい』とおっしゃられていたんです。ステンレスはスクラップになっても溶かして新しい商品に生まれ変わる。だから好きなんだとずっと言っていました。でも、リデザインの最終があがる直前で亡くなられて。パルスビーさんのお子さんがうちの東京にいるアドバイザーに相談にいらしたんです。経緯を伺って、うちとしても何とか力になれたらとカトラリーブランド『ICHI』の製造を始めました」

 

 

こうして、自社ブランド『TRIO』や『KAY BOJESEN』など、カトラリーの会社として地位を確立していった大泉物産。しかし、バブルがはじけた1990年代ころからカトラリーの製造販売だけでは売り上げが厳しくなっていた。そんなときに社長が目指したのは、住宅まわりのトータルコーディネートができる会社。小売店や店舗などで、器やテーブルまわりも含めて提案できるライフスタイルブランド『OH!』を立ち上げた。

「きっかけは、OEMでお風呂場やキッチン、トイレなどについている換気扇のフードを製造するようになったことなんです。大きな括りでみると、カトラリーも換気扇も同じ住宅の中で使うもの。それなら、大泉に行ったらカトラリーもテーブルも椅子もあって、住宅のものなら何でも揃う状態になったらいいんじゃないかなと思って、ブランドを立ち上げました」

 

 
 

現場を知ることで、仕事を知る。街全体で職人を育てる


 

金属加工の産地として認識されるようになった燕三条地域。それでもまだ職人の成り手は足りず、人材確保に苦労している会社はたくさんある。一方で大泉物産は県外から職人になりたいとIターンする人がいるなど、若い職人も少なからずではあるが確保できてきている。このように職人の成り手を確保するためにはどうすれば良いのだろうか。

「”燕三条 工場の祭典”は一般の人に見てもらうことも大事ですが、それ以上にものづくりに興味がある人が現場を直接見学できると言うことに意味があります。工場の祭典のようなことが年間を通して起きている街で、ふらっと工場見学ができるようになったらいいんじゃないですかね。あとは、街全体としても研磨やプレスを教える機関があって、勉強してから現場に出る仕組みを整えるとか。今は新人が入るといきなりトップギアで現場に入らなければいけない状況じゃないですか。その前に知識を学べる教育機関があるといいのかもしれませんね」

 

 

昔は自宅の裏に工場があり、○○さん家はプレス屋さん××さん家は磨き屋さんといった具合に工場が身近な存在だった。しかし、今は自宅と工場は別の場所にあるため、親の仕事を知らない子どもも多いのだという。

「親の仕事も、地域の産業も知らない子どもが結構いるみたいなんですよ。小学生のうちから工場を見せていくことも必要だと思うんですよね。こんなの作っているんだよと見せることで、街を誇りに思ってもらえたら。そうしたら、一度市外や県外に出たとしても、戻りたいと思ってもらえるようになるんじゃないでしょうか」

事実、取材時には大泉物産にスコットランドから研修生が訪れていた。ロンドンで開かれた催事で大泉物産と出会い、工業デザインの勉強のため研修生としてやってきたそうだ。市内の企業を30社以上見学し、さまざまな加工方法を学んでいる。
 

スコットランドからの研修生でアーティストのキャスリーンさん
パルスビー氏が惚れ込んだことからもわかるように、海外からでも学びたいと思う人がいるくらい、高い技術を持っている工場がある街なのだ。

それだけの技術があることを地域の子どもたちにも伝え、まず街を知り、いずれは街に誇りを抱く様になることで、産地としての未来が開けてくるのかもしれない。

 

 

株式会社大泉物産

〒959-1286 新潟県燕市小関151
TEL:0256-63-4551
FAX:0256-64-2291
https://www.ohizumibussan.jp/