2022.4.15 UP

マイナスからの再出発。不利な状況から顧客を開拓した不屈の鉄屋

中小企業が大多数を占める、ものづくりのまち・燕三条。
今回伺った三条市の株式会社ナカジョウ(以下、ナカジョウ)は一度会社を失い、再スタートを切った鋼材(鉄板)の卸問屋だ。営業をしても門前払いという状況の中、客先や仕入れ先に足繁く通うことで少しずつ顧客の信頼を得ていった。

ゼロどころかマイナスからもう一度立ち上がった不屈の精神。その原動力を聞きに代表取締役社長 中條耕太郎さん(以下、耕太郎さん)のもとを訪ねた。

 

インタビューに応じてくれた、代表取締役社長の中條耕太郎さん

 
 

金属加工の原材料、鉄・鋼の材料屋「株式会社ナカジョウ」

倉庫の中には、300〜400トンの鋼材(鉄板)が置かれている

包丁や農作業具、作業工具などの商品を作るためには、材料となる鉄や鋼は必要不可欠です。それを仕入れ、適切な長さ・大きさに切り揃えて卸す問屋が三条には数多く存在する。

そのひとつであるナカジョウは、主に建設関係の企業に鋼材(鉄板)を卸している。建設現場のオーダーを聞いた上で材料を仕入れ、切断し、納品する。少量でも要望を聞き入れ、可能な限り早く顧客の手元に届けることを意識している。

小回りの効く鋼材の卸問屋という立場を築いたナカジョウ。その背景には、金属加工の産地で産業と共に大きくなっていった前身の会社と、再興の歴史があった。

 
 

鉄の時代を予想し、三条鍛冶の地で鋼材の卸問屋の道を歩む


 

中條家のルーツは、三条市内の神社や寺院を修繕する宮大工。

その後、1905(明治38)年から鋼材の卸問屋を始めたと伝えられている。
九州では1901(明治34)年に官営の八幡製鉄所が始まり、鉄の時代の到来が叫ばれていた頃だった。こうした時代背景の中、耕太郎さんの曽祖父は、鉄の時代を予想し、鉄卸しの商いの道へ。ここから、中條家で鋼材の卸問屋の歴史が始まったのだ。

当時の三条は、和釘の製造からノコギリ、刃物など、数々の鉄製品が作られ、各製品で専業化する動きが始まっていた。そのため、製品に合わせた特殊な鉄や鋼などの専門的な材料を揃えることが求められていた。

卸問屋がより専門性の高い鋼材を仕入れ、鍛冶屋がそれを使って製品を作る。卸問屋と鍛冶屋が一緒になって産地を作り上げてきたのだ。

「開業した場所は、今の北三条駅近く。当時、北三条駅に貨車が降り、鉄屑が集められていたから材料屋が集中していたみたいですよ。そこから鋼材を分配し、鍛冶屋へ販売する。だから今でも北三条駅の周りには鍛冶屋がたくさん残っているそうです」

 

宮大工のころ鶴屋仁平と名乗っていたことから、屋根の形と「ツル」と「二」の文字が家紋に残る
大正・昭和初期と変わらず卸問屋を続けていたが、第二次世界大戦後に3代目である耕太郎さんの父が中條鋼材株式会社を設立した。オイルショックや高度経済成長など、社会の変化を経て大手企業との契約が始まったことから、業績は急上昇。売上は月10億円、従業員数は250名を超え、フィリピンにも工場を出すなど、飛ぶ鳥を落とす勢いで会社はぐんぐんと成長していった。

 
 

会社を一度失い、マイナスからのスタート

好調だった中條鋼材株式会社も、1995年から96年にかけてその勢いに翳りが見え始める。

一番の仕入れ先であった鉄鋼材の商社から役員が送り込まれ、ついにはM&Aをされてしまったのだ。株式の購入から内部調査、役員総会の決議と着々と吸収合併が進んでいく様子に、成す術もないまま時間だけが過ぎていった。明治時代から築いてきた歴史は、創業から93年で一旦ストップすることになった。

その頃なんと、耕太郎さんはそのM&Aを仕掛けた首都圏にある同商社で働いていた。しかし、この事態を聞きつけ、三条に戻ってきた。

「商社で働いてみてサラリーマン生活もいいなと思っていたのですが、家業を失う事態になって。祖母、親父が必死に頑張ってきた姿を思い返したら、家を捨てるわけにはいかないなと。幼い頃から親子二人三脚でやってきているのをみているから、一層継ぎたいとの意識が強かったんだと思います」

 

 

急遽、地元で会社を設立することから始めた耕太郎さん。株式会社ナカジョウと名付け、まずは昔の得意先に営業へ出かけた。しかし、ほとんどが門前払い。話を聞いてもらうことすらできなかった。

それでも、耕太郎さんは足繁く通い続けた。

「鉄板2枚だけと言われても、『今持っていきます』とすぐに持っていったり。設立したばかりでまだ会社としての信用もないことから、仕入れ先に現金を持ってお願いに行ったこともありました。成熟した業界に対して新しく参入するには、ニッチな分野しかない。自分が動いて売上に繋がるのならばと、とにかく足で稼いでお客さんとの信頼関係を築いていきました」

地道な営業が実を結び、10年経ってようやく売上も安定するように。2016年頃からは、夜間も稼働できる機械など計3台を導入し、顧客の要望にしっかり応えられる体制づくりに力を入れるようになった。

 
 

技術力が試される、ガス溶断。±0.5mm以下の世界で正確な切断を

ナカジョウの鋼材(鉄板)は、7割が建築資材、それ以外は車のパーツや工作機械として使われるが、そのほとんどがオーダーカット。種類や大きさ、厚さ、数など細かく聞いた上で仕入れ、切断加工をしてお客さんの元に届けることがナカジョウの役割だ。
 

ガス溶断で一気に切断する

鋼材(鉄板)をカットする方法はガス溶断とレーザー溶断、プラズマ溶断の3種類。この中で最も技術力を要するのは、高濃度の酸素を急速に吹き込んで切断するガス溶断だ。パワーが強いため、厚い鋼材や一度に複数枚もの金属を切断できる溶断方法だ。

 

 

「ガス溶断は、一番誤差が生じやすく、最も職人の腕が試される方法です。鉄は夏には膨張しやすく、冬には収縮しやすいもの。職人は経験からその度合いが身についているので、季節によって変わる温度や湿度を見ながらガスの出力度合いを微調整します。通常1mm〜2mmの差が生じるのですが、長くガス溶断をやっている職人は±0.5mm以下の世界。長く続けているからこそできる職人の技です」

さらに、現在は同業他社との連携も強める。互いに加工が間に合わないときは助け合い、同業でも機械を持っていない会社から加工を請け負うこともある。「自社からのアプローチだけでは動きが限定的になってしまう」との危機意識から耕太郎さん自身が始めた事だそうだ。

「難しい仕事ほど、どうやって実行するかを考えるのが楽しいんですよね。技術もそうですが、納期やコストも含めてどうしたらお客さんの要望に応えられるか。最近は鋼材の表面をショットブラストなどで加工してくれとお願いされることも多いので、そうした加工は他社に依頼したり。プラモデルをつくるようにひとつずつ要素を組み立てていく感覚ですね」

 

表面加工や特殊な形状のオーダーカットを請け負う

 

地元の為に汗を流せ。鋼材の卸問屋を広く知ってもらうために

卸問屋は製品をつくるわけではないため、一般の人にはあまり身近ではない存在だ。

だからこそ、どんな仕事をしているかを見てもらえる空間をつくりたいと耕太郎さんは夢を語る。

「どんな工程で進めていて、どんな切断技術があるのか。鉄や鋼を卸す会社の仕事を知ってもらえるような場所をつくりたいと考えています。今、一般の方は包丁やハンマーなど、金属の完成品だけを見ている状態ですよね。ですが、そもそも材料がないと製品を作ることもできない。そのことを理解してもらった上で、どんな流れで普段目にする製品ができているか、その最初の工程として知ってもらえたら嬉しいです」

 

 

材料屋としての目線から、一般の人にも工場を開こうとする耕太郎さん。その構想は、製造業の世界だけに留まらない。

2010年頃には、かつて職人が遅くまで酒を飲み交わした三条市の本寺小路を盛り上げる実行委員の副委員長を担当し、率先して地域活動に取り組んできた。その理由を耕太郎さんは父親からの言葉と、経営者として芽生えた地域への思いだったと振り返る。

「祖母からも親父からも、地元のために汗を流せと言われて育ってきました。だからこそ、生まれ育ったこの街に恩返しじゃないけど、この街のために働きたいという思いがあったんだと思います。きっかけは仲間が新しく青年部の委員会を立ち上げると聞いたとき。類似団体があるのに新しく組織をつくると決めたことが、マイナスから始めた自分の会社とリンクしたんです。それに先祖代々受け継がれてきた街を次世代に繋げていきたいという想いもあった。そうした理由が重なって、地域のためになるのであればと仲間に加わりました」

 

 

次の世代へ技術を残すこと、まちの人同士で話し合うこと。これは、ものづくりのまちとしての燕三条も同じだ。過去の人間の技術があるからこそ、今の機械がある。材料の卸問屋から加工屋、産業廃棄物の収集会社までいる地域だからこそ、他業種との連携が必要になってくる。

ものづくりも、まちづくりも、根本は変わらない。

「会社も、まちづくりも、次世代へ繋いでいくことを諦めず、不屈の精神で取り組んでいきたい」。そう意気込む耕太郎さんの挑戦はまだまだ続く。

 
 

株式会社ナカジョウ

〒955-0021 新潟県三条市下保内409-15
TEL:0256-31-5019
FAX:0256-39-4832