彫金を次の世代に渡せるか。葛藤しながら歩んできた20年 大岩彫金
今回訪ねたのは燕市。スプーンやフォークなどの洋食器の産地として知られるこの街には、洋食器の文化を陰で支える彫金師と呼ばれる職人の存在がある。
彫金とは文字通り金属を彫ることで模様をつける細工のこと。対象物の表面に直接模様や文字などを彫る「うわ彫り」や、金型*に彫刻を施すことで、対象物に立体的な造形を施すことができる「金型彫刻」などに分かれる。この金型彫刻の職人の技術は今、衰退の一途をたどっている。かつて大きな盛りあがりを見せた国内での洋食器の製造だが、世界の洋食器の製造がアジアを中心とした海外へ移ったこともあり、最盛期に100人いた職人は10人ほどにまで落ち込んでいる。
とにかく手に職をつけたかった、学生時代
美術系の大学へ進学するか悩んでいた際、頭に浮かんだのは彫金師である義叔父の姿。コンコンと模様を彫っていく叔父を見て、自然に自分も手に職をつけたいと思うようになる。しかし在学中に叔父は亡くなってしまう。
「彫金の技術を覚えるにはどうすればいいか。」そうやって親戚を頼ると、大橋さんという職人を紹介してくれた。
大橋さんは人間国宝である海野清氏の内弟子になり、技術を磨いた人物。期待に胸を膨らませ彼の元へ向かうと、弟子入りではなく、別の彫金師を紹介してもらうことになった。
「紹介してもらった親方のもとで働き始めてからは、独立を目指して日中は親方の仕事を見て覚え、家に帰ったら夜な夜な練習をする…とにかくがむしゃらな日々でした。」
親方のもとで大岩さんは、デザインから設計図、金型彫刻までを学んだ。。仕事は見て覚えるのが当たり前の時代。図面の見方や彫り方など教えてはもらえず、最初は鏨(たがね)を研ぐことから始めた。「どんな角度で研いであるのか」そんな答えすらも、自ら休憩時間に見て覚えるしかなかったという。
弟子入り3年目からは親方を紹介してくれた大橋さんのもとにも通い、仕事を小さく請け負うようになる。親方は塊から彫り崩して仕上げる、種矢彫り仕上げを得意とする。一方、大橋さんは鋳金(ちゅうきん)といって、加熱して溶かした金属を流し込み目的の形をつくる鋳型(いがた)を作るのがうまかった。この二人を師として技術を覚え、5年が経ち、1から10まですべて自分でこなせるほどではなかったが、とにかく希望を胸に独立を果たした。
金型彫刻とは
大岩さんが彫金師として独立した時は、洋食器の全盛期。高度経済成長で日本の食卓が西洋化したことで、洋食器の需要とともに金型彫刻の仕事も増え、とにかく忙しいタイミングだった。
彫金の中でも、金型彫刻は特に精密さが問われる。例えばカトラリー製造の場合、地抜きといって、まず金属板を形状に合わせて打ち抜く。基本の形ができたら、金型で模様をプレスすることで対象物に立体的に模様が転写される―これが一般的な製造方法だが、大岩さんが担当したのは逆だった。
「ステンレス製のカトラリーはバリ*を出してはいけません。地抜きと金型彫刻の模様がぴったり合わないといけなかったんです。当時担当した会社は金型彫刻を先に行い、地抜きを合わせるのが後。図面通りに彫るのが私たちの仕事でしたが、地抜きとぴったり合わせるには金型屋との連携が不可欠で…今考えると、すごく難しい仕事をしていたと思います(笑)。」
聞くだけで頭が痛くなるような精密な加工を、大岩さんは鏨(たがね)を使い、手仕事でやってきた。これは手の動きの正確さだけではなく、鏨の研ぎ方がものをいう。つまり彫金する前の準備段階で、製品の良し悪しが決まるのだ。
鏨を研ぐ際に気を付けるのは刃の角度。直線の場合、鋭角になっていないとまっすぐ彫れないし、逆に曲線の場合は、鈍角にしないとS字やO字を描けない。鏨は、グラインダーの回転が速すぎるとなまくらになってしまうため、手回しでゆっくり研ぐ必要がある。初めのうちは何本も鏨をだめにしながら、少しずつ加減を身体に染みこませていった。
面白いから続けられる。大岩さんの軸
葉脈には彫金を施し、リアルな葉の形は鍛金で仕上げ、自分の持てる技術を詰め込んだ。中でも苦労したのは色付けだ。鮮やかな紅葉の緋色は、最初は依頼して色付けをしていた。しかし小さなものであれば、工房にあるバーナーでも色付けができるのではないかと、全て自分で手掛けるようになった。温度が高いと銅が溶けてしまい、低いと赤く色づかない。ギリギリを見極めるのが難しく、何度も失敗を重ねてきた。
改良を重ね、木の葉のブローチは箸置きに形を変え、2012年に全国観光土産品審査会で経済大臣賞を受賞する。彫金の存在が、私たちの生活に一歩近づいた瞬間だった。
洋食器の需要は先述の通り減少傾向。金型彫刻も同様に仕事が少なくなっていった。全盛期には100人いた彫金師も、今では両手で数える程度。彫金という仕事の面白さをもっといろんな人に知ってもらい、繋ぎとめたいという思いから、彫金のワークショップを始めた。
「小学生から大人まで、様々な方に参加いただいています。皆さんそろって楽しく製作しています。完成したときの喜びはひとしおですよね。こうした小さい体験から、『彫金師という仕事があるのだ』と知ってもらえれば。」
コツを覚えれば誰でも楽しめるものづくりワークショップは、リピートする人も増えて、「もっと難しいものに挑戦したい」という声すらも出てきた。
しかし、まだまだ職業としてはハードルが高いことには変わりない。大岩さんは箸置きの製作とワークショップを通じて彫金の面白さを伝え、その先の彫金師になりたいと思う人に間口を広げている。
0から育ててきたこの事業も、10年ほど経つ。大変なことも多い中、大岩さん自身が続けるのはどうしてだろうか。
「いちから形を作るのも、人に教えるのも好きだし面白いんです。だから、まったく苦になりません。ワークショップでは海外にも出張し、この年になってからでも海外に行けるなんてラッキーだと感じています(笑)。」
後継者は欲しいけどつくらない。迷いながら進んできた今
「彫金の仕事だけで生計が立てられればいいんですが、なかなか難しいので…先行きが不透明な中、後継者をとるのは違うのではと思っているんです。」
磨き*は職人の減少に伴い、後継者育成に力を入れている。一方で彫金は洋食器の縁の下の力持ちで、なかなか光が当たらずにいた。どんな技術でも、一度技術が途絶えてしまうと、復活するまでにエネルギーがかかる。そうならないためにワークショップや箸置き作りに力を注いできたが、それだけでは若い世代が安心して彫金に励むことができず、仕事を作り出すことも大切になってくる。その点、大岩さんは燕三条という地場が持つ力に可能性を見出している。
燕市にある産業史料館には、カトラリーを手作りで製造していた工程の展示がある。大岩さんは独立を機に、自分で一からカトラリーを作ってみようと、資料を読み込んだり産業史料館の展示に足を運んだりした。そこから独学でモックアップモデル作りを会得した。今では様々なクライアントから依頼が絶えない。実際に手に持ち、重さや手触りを確かめることで、共通認識が深まりより良いものづくりをすることができる。なによりモックアップモデルがあれば、三次元スキャナーで形を読み取り、マシニングセンタ*で加工することで洋食器の金型製作が可能になると考えている。
減少傾向にある彫金の仕事も、視点を変えればやれることはある。後継者はつくらないと話しながらも、まだ諦めたくないという強い意志をその目は物語っている。
技術を継ぐとはどういうことなのだろうか。
近年、もの離れという言葉も耳にするようになり、ミニマリストというライフスタイルも生まれた。無駄なものをそぎ落とし、本当に必要なものだけを暮らしに取り入れるスタイルだ。彫金が施された洋食器は、ともすると華美で無駄なものに感じるかもしれない。
しかし装飾された洋食器は美しく、私たちを魅了する。食卓を彩り、暮らしを豊かにするのだ。
技術を継ぐことは、文化を継ぐこと。
そしてその道を次に繋ぐために、大岩さんは今日も鏨を叩く。
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