2023.4.21 UP

指の先、身体の角度、骨の位置まで意識を研ぎ澄ます。
玄能鍛冶が追究するものづくりの道
相豊ハンマー

 
 

“玄能”という日本特有の万能工具

「玄能」と言われても、耳なじみのない言葉かもしれない。玄能とは、素材を傷つけないよう打ち分けが可能な金槌のことで、大工の世界では鑿(のみ)を叩く道具のことを指す。日本発祥の道具で、始まりは江戸時代までさかのぼる。

慶長5年、関ヶ原の戦いに勝利し天下をおさめた徳川家康は、江戸城の築造にあたる。新たな領土を与えられた大名たちは、城の大改修や新築を行い、一気に築城ブームが訪れた。日本人は西洋人と比べて力が弱かったために、木槌より力が伝わりやすい金槌で鑿を叩けるよう改善されたのが、玄能だ。玄能の登場により、大工は効率的に仕事を担えるようになった。

 

鑿を叩くだけでなく釘を叩きしめられる様に片面は丸みを帯びた形になっている

 

新潟県三条市に工房を構える相豊ハンマーの相田さんが手掛ける玄能は大工からお墨付きを得ている。現在、受注した玄能は納品されるまでに数年を要する。相田さんのつくる玄能は、他と何が違うのだろうか。

 

高い精度で穴(あな)あけがされている玄能は、使用時の安定性が高い。

 

「玄能は穴あけが肝。柄が抜けやすかったり、ぐらぐらしてしまったりすると道具として使えない。だから穴にわずかなテーパーになるような角度をつけるんです。そうすることで、柄が抜けにくくなるから、柄は安定する」

どうやったら、大工が気持ちよく使えるだろうか。
考え、試行錯誤し、探究した。その先に、今の玄能の形がある。とことん突き詰めるのが、相田さんの性だ。

 

 
 

提灯金具から玄能づくりへの一歩

相豊ハンマーのはじまりは、明治初期にさかのぼる。当時は玄能ではなく、提灯金具の製造をしていた。資料は残っておらず、祖父や父からも当時のことは聞いていない。はっきりわかるのは、祖父の代で「提灯金具ではもうやっていけない」と金槌鍛冶の職人のもとへ弟子入りしたことだ。祖父は自宅の向かいに工場をつくり、金槌鍛冶として再スタートをきる。
相田さんは物心ついたときには工場が遊び場だった。祖父の工場や近くの工場で廃材がでればノコギリやカッターで工作をする少年だったという。

「小学校で工作させたら、右に出るやつはいねえくらいのもん作ってたね」
相田さんは得意げな笑顔を覗かせながら続ける。


 

材料を切削するグラインダーも小学生のときにはすでに使っていた。祖父や父の働く姿を間近で見れる環境は、宝だった。それを仕事にしたいと思ったのは、職業訓練校に入ってからである。
学校には最先端の工作機械もあり、これまでの学校生活で初めて楽しいと感じた。「ものづくりって面白れえな」「これを仕事にできたら最高だよな」と胸が膨らむ瞬間が、幾度となくあった。

卒業後、アルバイト先の会社に就職する。機械の生産ラインを管理する仕事だった。「こう機械を改良したらもっとよくなる」と提案すれば、やらせてもらえる環境に充実感を抱く日々。現状では満足できず、自分の実力を試したくなった相田さんは、29歳のとき独立。父の工場の一部を借り、自分のアイディアでものづくりを始めた。

 

相豊ハンマーの折り畳みスコップ。手道具のあるべき姿を追究したシンプルな形状だ。

 

あるとき、相田さんは折り畳みスコップを産み出す。それまでになかった画期的な商品に注目が集まると、すぐに安価な類似品が出回った。工業品は真似されてしまう、それなら誰にも真似できないものを作りたい。相田さんの目に映ったのは、鍛冶をする父親の姿。これだと思った。

 

 
 

新たに学ぶ中で気づく、感性を磨くということ

父親のもとで金槌鍛冶を行う中で、ある出会いが相田さんの人生を変える。玄能づくりの名工、長谷川幸三郎さんだ。長谷川さんは300年に1人の名工とも呼ばれ、数多くの大工がこぞって長谷川さんの玄能を愛用するような、憧れの存在である。

時代の移り変わりとともに大工の作業工程が製材工場で行われるようになり、金槌の需要が徐々に減少するのに伴い、玄能をつくれる職人の数も減っていた。だが、そんなとき相田さんのもとに「玄能を作ってほしい」という声が届く。面白そうだと相談を受けた相田さんだが、身近に金槌を作る父はいれど、玄能の良し悪しを評価できる人はいない。どうしたものか…。そんな際にふと頭に浮かんだのは、神戸の竹中大工道具館を訪れたときに目にした、長谷川幸三郎さんの玄能製造のビデオだった。自分が製造したものはどこがだめなのか、映像を何度も何度も見て、試行錯誤した。
それから間もなく、長谷川さんの引退の知らせが相田さんのもとに届く。長谷川さんと親交のあった鍛冶屋から「会いに行くなら今だ」と背中を押された。どうしても自分の玄能を名工の長谷川さんに見てほしい。面識はなかったが、長谷川さんへと電話をかけた。受話器の奥から「来るな」という声が聞こえても、相田さんは自分で作った玄能を片手に会いに行った。

 

 

「教える筋合いはねえと言われたけど、見てもらう人がいなかったので、会うだけでいいからと押しかけました。いざ対面してみると、今まで会った誰とも違う、鍛冶に対しての造詣の深さと思い入れの強さに、一目惚れしちゃって」

この人の言うとおりに勉強してみよう。
2年間長谷川さんのもとに通い、作ったものを見てもらう日々が始まった。長谷川さんも引退した身、最初こそ嫌がれど、とことん玄能を極めようとする相田さんの姿勢に、「最後まで面倒を見てやる」と折れた。さまざまな職人技をその目で見てきた問屋にも声をかけ、相田さんが困ったときに助言を求められる環境を整えてくれた。
長谷川さんからは、技術的な玄能づくりは教えてもらえなかった。代わりに玄能を見せては「お前はどう思う」と問われ、自分の課題を改善していく。長谷川さんとともに過ごす時間が増える中、一番の学びは豊かな感性だった。

「長谷川さんとの雑談は、楽しくて学びの多い時間だったな。話がとにかくうまかった。物語性があるんですよ。登場人物がいろいろ出てきて。
『依頼者はどうして玄能がほしいのか』『依頼したときの図面はどんなものか』『その人はどんな家系の生まれで、どんな運命を辿ってきたのか』。依頼してくれた人の生き方を聞かせてくれました」

雑談を通して、これからのものづくりに大切なことを学んだ。それは感性を磨き、道具ではなく作る人の人間力を高めていくこと。玄能の、目に見える部分だけでなく、ものから感じとれる部分を大切にした長谷川さんのまなざし。それがいいものづくりができる条件なのだと。

 玄能を作るときも、身体全体を隅々まで意識する。

 

 
 

大工の身体の使い方から学ぶ、道具づくりの要

道具は、環境や状況によってさまざまな使われ方をする。だから道具を使う側の人の身体の動きを知ることが、いい玄能づくりに繋がるのではないかと、相田さんは考えた。

例えば一般的に玄能や金槌を使うとき、肘を軸に腕を振り下ろす。しかし玄能ができた江戸時代では、腕全体を使って、肩から振り下ろす力で鑿を叩いていた。玄能は正しく使えば、力がない人も同じように叩けて疲れにくい。当時の大工はこうした身体の使い方を研究し、疲れず効率的に仕事ができるよう工夫していたのだろう。
相田さんは作り手が身体の使い方を研究することで、使い手がより効率的な仕事をできるようにサポートができると考えた。そこでまず手を付けたのは武術的身体操作法だ。
武術的身体操作法を学ぶことで、相田さん自身のものづくりのやり方に変化が訪れた。足の引き方や座っているときのお尻の位置、骨盤の立て方…すべてが目の前の玄能づくりに繋がっている。玄能の穴あけは、1mmのズレが製品に影響を与える。特に身体に余計な力が入っていると、正確な位置に穴をあけられないという。

 

 

こうした身体の使い方から、玄能を使う大工の動きをイメージして、どの高さから打ち込むと力が伝わりやすいかを考えた。そして、こーんと気持ちよく打てる玄能の孔の位置や形、大きさなどを算出し、研究を重ねた。職人の技術を極めることはもちろん大切だ。しかしそれ以上に、使い手のことを第一に考えて作られたものは驚くほど手にすっと馴染む。

 

 
 

玄能だからこそいきる、これから

「毎日、本当にものづくりがうまくなっているのがわかる。手の感覚というか、身体全体の感覚が研ぎ澄まされている意識があるから、まだまだ先にいけんだろうな」

 

 

楽しそうに相田さんは話す。
今や相田さんの玄能は注文が絶えず、手に入れることが難しい。弟子を迎え、これからどんな景色を見ているのだろうか。

「弟子を入れたんですけど、多くの人がさ『食っていけんのか』って思うでしょ?仕事がなかったらつくりゃいい。実際に、作れば仕事は見えてくんのよ」

玄能は大工仕事だけでなく、様々な仕事に使われている。細やかな作業を担う彫刻家や建具屋、鍵屋、彫金師など、金槌を扱う仕事は実は多い。そこに相田さんは玄能の可能性を感じているのだ。実際に石屋から小さい玄能の注文を受け、そこから「こんなものは作れないか」と仕事が生まれている。

 

本から学び、自分に生かす。相田さんの本棚から弟子たちも好きに読んでいる。

 

「本当にいいものを作ろうとしたとき、作り手の都合でものを作っていないか、よく考えた方がいいと思っています。使い手にとって、本当に使いやすいものを作れているかどうか」

需要があっても、過度に価格をあげない。使い手が手に取りやすい適正な価格を問屋と話している。いつも相田さんの先には使う人の視点がある。

相田さんの弟子にもその考えは徹底されている。工場の裏手にいくと、何百ものスクラップが積まれていた。すべて弟子が作った玄能だという。「失敗しても直すんじゃなくて、失敗しないような仕事をさせてる。失敗した箇所を直しているうちは、絶対にうまくならない」相田さんは断言した。弟子たちには、「自分には何が足りないのか」、「いい玄能とはどんなものなのか」と、失敗した理由を自分で考えさせる。だから叱ったことは一度もない。何度失敗してもいいから、仕事の姿勢は自分でつくらせる。この考える力はすべて、長谷川幸三郎と本の中の師から教わった。

「今は昔と違ってその道で上手くなれば食えるわけじゃない。問屋さんに頼るだけじゃなく、自分でも考えてものをつくらないといけない。色々本読んだりして、やっぱり上手くなった人たちはそうやって育てられてきたんだよ、うん」

彼らもまた、相田さんの背中から、本棚の師から、教わっている。誠実なものづくりへの態度が仕事に繋がるのだと。いくつもの世に出ないものづくりの先に、本当にいいものだけが問屋のもとへ出荷される。

 

工場の裏手にある、何百と積まれたスクラップ

 

相豊ハンマーで作れられているのは、一点一点精度の高い、使い手に寄り添った玄能だ。
作り手の思いやりを感じられるから、手に馴染むし次もまた使いたくなる。そこには玄能を使い慣れていない人もいれば、繊細な仕事を行うプロの姿もある。多くの職人たちが惚れる相田さんのものづくりは、“使い手にとっていい”ものづくりだった。

最後に相田さんに、燕三条のこれからを伺った。

「産地競争でも価格競争でもない、新しい時代に即した産地を考えていかなきゃいけない。工業品も工芸品も等しく存在できる、職人一人ひとりが自分の土俵を作っていけるような、そんな産地としてのあり方がここ燕三条から広がっていくとよいですね」

 
 

相豊ハンマー

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