指の先、身体の角度、骨の位置まで意識を研ぎ澄ます。
玄能鍛冶が追究するものづくりの道
相豊ハンマー
“玄能”という日本特有の万能工具
慶長5年、関ヶ原の戦いに勝利し天下をおさめた徳川家康は、江戸城の築造にあたる。新たな領土を与えられた大名たちは、城の大改修や新築を行い、一気に築城ブームが訪れた。日本人は西洋人と比べて力が弱かったために、木槌より力が伝わりやすい金槌で鑿を叩けるよう改善されたのが、玄能だ。玄能の登場により、大工は効率的に仕事を担えるようになった。
どうやったら、大工が気持ちよく使えるだろうか。
考え、試行錯誤し、探究した。その先に、今の玄能の形がある。とことん突き詰めるのが、相田さんの性だ。
提灯金具から玄能づくりへの一歩
相田さんは物心ついたときには工場が遊び場だった。祖父の工場や近くの工場で廃材がでればノコギリやカッターで工作をする少年だったという。
「小学校で工作させたら、右に出るやつはいねえくらいのもん作ってたね」
相田さんは得意げな笑顔を覗かせながら続ける。
学校には最先端の工作機械もあり、これまでの学校生活で初めて楽しいと感じた。「ものづくりって面白れえな」「これを仕事にできたら最高だよな」と胸が膨らむ瞬間が、幾度となくあった。
卒業後、アルバイト先の会社に就職する。機械の生産ラインを管理する仕事だった。「こう機械を改良したらもっとよくなる」と提案すれば、やらせてもらえる環境に充実感を抱く日々。現状では満足できず、自分の実力を試したくなった相田さんは、29歳のとき独立。父の工場の一部を借り、自分のアイディアでものづくりを始めた。
新たに学ぶ中で気づく、感性を磨くということ
時代の移り変わりとともに大工の作業工程が製材工場で行われるようになり、金槌の需要が徐々に減少するのに伴い、玄能をつくれる職人の数も減っていた。だが、そんなとき相田さんのもとに「玄能を作ってほしい」という声が届く。面白そうだと相談を受けた相田さんだが、身近に金槌を作る父はいれど、玄能の良し悪しを評価できる人はいない。どうしたものか…。そんな際にふと頭に浮かんだのは、神戸の竹中大工道具館を訪れたときに目にした、長谷川幸三郎さんの玄能製造のビデオだった。自分が製造したものはどこがだめなのか、映像を何度も何度も見て、試行錯誤した。
それから間もなく、長谷川さんの引退の知らせが相田さんのもとに届く。長谷川さんと親交のあった鍛冶屋から「会いに行くなら今だ」と背中を押された。どうしても自分の玄能を名工の長谷川さんに見てほしい。面識はなかったが、長谷川さんへと電話をかけた。受話器の奥から「来るな」という声が聞こえても、相田さんは自分で作った玄能を片手に会いに行った。
この人の言うとおりに勉強してみよう。
2年間長谷川さんのもとに通い、作ったものを見てもらう日々が始まった。長谷川さんも引退した身、最初こそ嫌がれど、とことん玄能を極めようとする相田さんの姿勢に、「最後まで面倒を見てやる」と折れた。さまざまな職人技をその目で見てきた問屋にも声をかけ、相田さんが困ったときに助言を求められる環境を整えてくれた。
長谷川さんからは、技術的な玄能づくりは教えてもらえなかった。代わりに玄能を見せては「お前はどう思う」と問われ、自分の課題を改善していく。長谷川さんとともに過ごす時間が増える中、一番の学びは豊かな感性だった。
「長谷川さんとの雑談は、楽しくて学びの多い時間だったな。話がとにかくうまかった。物語性があるんですよ。登場人物がいろいろ出てきて。
『依頼者はどうして玄能がほしいのか』『依頼したときの図面はどんなものか』『その人はどんな家系の生まれで、どんな運命を辿ってきたのか』。依頼してくれた人の生き方を聞かせてくれました」
雑談を通して、これからのものづくりに大切なことを学んだ。それは感性を磨き、道具ではなく作る人の人間力を高めていくこと。玄能の、目に見える部分だけでなく、ものから感じとれる部分を大切にした長谷川さんのまなざし。それがいいものづくりができる条件なのだと。
大工の身体の使い方から学ぶ、道具づくりの要
例えば一般的に玄能や金槌を使うとき、肘を軸に腕を振り下ろす。しかし玄能ができた江戸時代では、腕全体を使って、肩から振り下ろす力で鑿を叩いていた。玄能は正しく使えば、力がない人も同じように叩けて疲れにくい。当時の大工はこうした身体の使い方を研究し、疲れず効率的に仕事ができるよう工夫していたのだろう。
相田さんは作り手が身体の使い方を研究することで、使い手がより効率的な仕事をできるようにサポートができると考えた。そこでまず手を付けたのは武術的身体操作法だ。
武術的身体操作法を学ぶことで、相田さん自身のものづくりのやり方に変化が訪れた。足の引き方や座っているときのお尻の位置、骨盤の立て方…すべてが目の前の玄能づくりに繋がっている。玄能の穴あけは、1mmのズレが製品に影響を与える。特に身体に余計な力が入っていると、正確な位置に穴をあけられないという。
玄能だからこそいきる、これから
今や相田さんの玄能は注文が絶えず、手に入れることが難しい。弟子を迎え、これからどんな景色を見ているのだろうか。
「弟子を入れたんですけど、多くの人がさ『食っていけんのか』って思うでしょ?仕事がなかったらつくりゃいい。実際に、作れば仕事は見えてくんのよ」
玄能は大工仕事だけでなく、様々な仕事に使われている。細やかな作業を担う彫刻家や建具屋、鍵屋、彫金師など、金槌を扱う仕事は実は多い。そこに相田さんは玄能の可能性を感じているのだ。実際に石屋から小さい玄能の注文を受け、そこから「こんなものは作れないか」と仕事が生まれている。
需要があっても、過度に価格をあげない。使い手が手に取りやすい適正な価格を問屋と話している。いつも相田さんの先には使う人の視点がある。
相田さんの弟子にもその考えは徹底されている。工場の裏手にいくと、何百ものスクラップが積まれていた。すべて弟子が作った玄能だという。「失敗しても直すんじゃなくて、失敗しないような仕事をさせてる。失敗した箇所を直しているうちは、絶対にうまくならない」相田さんは断言した。弟子たちには、「自分には何が足りないのか」、「いい玄能とはどんなものなのか」と、失敗した理由を自分で考えさせる。だから叱ったことは一度もない。何度失敗してもいいから、仕事の姿勢は自分でつくらせる。この考える力はすべて、長谷川幸三郎と本の中の師から教わった。
「今は昔と違ってその道で上手くなれば食えるわけじゃない。問屋さんに頼るだけじゃなく、自分でも考えてものをつくらないといけない。色々本読んだりして、やっぱり上手くなった人たちはそうやって育てられてきたんだよ、うん」
彼らもまた、相田さんの背中から、本棚の師から、教わっている。誠実なものづくりへの態度が仕事に繋がるのだと。いくつもの世に出ないものづくりの先に、本当にいいものだけが問屋のもとへ出荷される。
作り手の思いやりを感じられるから、手に馴染むし次もまた使いたくなる。そこには玄能を使い慣れていない人もいれば、繊細な仕事を行うプロの姿もある。多くの職人たちが惚れる相田さんのものづくりは、“使い手にとっていい”ものづくりだった。
最後に相田さんに、燕三条のこれからを伺った。
「産地競争でも価格競争でもない、新しい時代に即した産地を考えていかなきゃいけない。工業品も工芸品も等しく存在できる、職人一人ひとりが自分の土俵を作っていけるような、そんな産地としてのあり方がここ燕三条から広がっていくとよいですね」
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