Made in “TSUBAME”を全世界に轟かす!世界最高水準カトラリーの裏側に迫る 山崎金属工業
この地、燕三条を中心に海外の現地法人も持ち、世界最高水準の名をほしいままに進化を続ける山崎金属工業。
ノーベル賞90周年記念晩餐会でのカトラリー提供を始め、フェラーリのデザインを手がけたことで有名な奥山清行氏との共同開発によるKEN OKUYAMAのカトラリーシリーズの製造など、山崎金属工業の高い技術力は世界に誇れる唯一無二の存在となっています。しかし、現在のように海外と対等に取引ができるようになったのはそう昔のことではありません。
なぜ国内ではなく、あえて海外の市場へと勝負を仕掛けたのでしょうか。
代表の山崎悦次さんと工場長の修司さん親子には、自社のカトラリーの品質への絶対的な自信と、伝統を受け継いでいく覚悟が溢れていました。
歴史の流れに翻弄され続けた、山崎金属工業の海外進出への第一歩
山崎金属工業の創業者である山崎文言氏もまた、鎚起銅器の職人でした。その後、大正時代の後半にスプーン工房を開き、これが現在の山崎金属工業へと発展しました。
柔らかい銅や真鍮の素材で作ったカトラリーは耐久性が弱く、水に触れると変色してしまうことから、国内でも当時の欧米と同様に耐久性のあるステンレスへと徐々に原材料が変更されていきました。そして、この原料の変更がのちに、山崎金属工業を試練の時代へと導くことになります。
当時を懐かしみながら振り返る代表取締役の山崎悦次さん(以下、悦次さん)。
そこで山崎金属工業は、輸出に規制のかからないヨーロッパへと販路を広げます。
ところが、畳みかけるようにニクソン・ショックやプラザ合意による円高が起き、日本の輸出業界は大きな打撃を受けることに。何重にもなる時代の荒波の中で、山崎金属工業の悦次さんはある重要な決断を下しました。
「発想がいいんだから、やれ」父の一言で海外への挑戦の全てが動きだした。
「これを機に、輸出は自分たちで直接やろうと決めたんです。けれど直接取引しようにも、アメリカ向けの日本の輸出商社、又はアメリカ側の輸入業社を通さなければなりません。それでは競争力がなくなってしまうことから、デパートはじめ小売業者と直接取引ができるように、現地法人を1980年にニューヨークに立ち上げることにしたんです。」
その当時、悦次さんの家族や兄弟は大反対。しかし父親だけは違いました。
「お前は発想がいいんだから、やれ。」
その一言で家族も首を縦に振りましたが、それは失敗したら会社や仕事がなくなるかもしれない大きな賭けでした。悦次さんが大胆な行動に出たのには、理由があります。
アメリカに現地法人を出す以前に、悦次さんは直接販売で販路を確立しようと、製品を入れた箱を担ぎ、海外に飛び出していたのです。一軒一軒を回りつつ、海外デザイナーの発掘もしていたと言います。
「品質やデザインでは絶対に負けない。そう確信したのはヨーロッパと直接貿易をした時です。色々な企業と協業していましたが、その中でも非常に保守的なドイツのメーカーが山崎金属工業と組もうという話になったんです。アメリカに子会社を出したのも、品質では絶対に負けないというこの時の経験から来る自信があったからこそでした。」
悦次さんが自信を持つ「山崎の品質」の全容とは一体?早速、山崎金属工業の工場を見学してみましょう!
山崎金属工業のおいしさを感じるカトラリーの秘密。
「うちの工場は生産がライン化していません。工程の組み換えがあるため、ライン化ができないんです。」
安価なカトラリーの製造工程がおよそ6工程前後なのに対し、山崎金属工業のカトラリーは全部で35工程もあります。それぞれの工程に職人がつき、35人の専門的な職人のチームワークにより、品質の高いカトラリーが生み出される仕組みです。
職人は、自分が作る工程で失敗を犯すと、後の検品で不良が出てしまうことを考えながら作業をします。この高い意識は「山崎の製品はこうあるべきだ」というビジョンを、職人全員で共有できているからこそ。
「カトラリーは、デザイン的には存在感を出しつつも、その機能的には存在感を消さなければいけないものです。これがものづくりで難しいところです。」
食べ物の美味しさを引きたたせることのできるカトラリーは、食事の邪魔をしないんです、と修司さんは続けます。
「うちのスプーンの皿部分は薄めに作ります。これは口当たりがよいからなんです。口のセンサーはとても敏感で、スッと自然にスプーンが口を抜けるとおいしいと感じるんです。ナイフでも同じで、薄くして切れ味をよくしています。例えばおいしそうな食事を出されたとき、気持ちが高揚したまま食べ進めますよね。けれど、食べる途中でナイフが切れないとどうでしょう?一気にテンション下がりませんか?これではおいしく感じられないと思うんです。」
そして、このプレスと同じく山崎金属の技術力の高さを誇るのが、研磨の工程です。スプーンを一本磨くのには道具を10回以上変えないと、あのカトラリーの美しい光沢を出すことはできません。
山崎金属のカトラリーは、普段は目に見えない技術や工程で溢れています。
工場長が感じた、ものづくりの魅力とこの世界に生きる意味
「職人さんたちと風呂に入るのが大好きでした。(笑)普段、家では聞かないような苦労話をよく耳にしたんです。けれど、仕事を嫌がっている人は一人もいませんでしたよ。」
職人の活き活きとした姿に好感をもった修司さんは、山崎金属工業でアルバイトを始めます。ケンカしながらもコミュニケーションを取り仕事をする職人たちの姿を見て、ものづくりの世界への憧れが強まっていきました。
中学時代には、ノーベル賞90周年記念晩餐会に山崎金属工場のカトラリーが採用されたニュースが舞い込んできます。
その後、修司さんは山崎金属工業に入社することになります。
ところが、ようやく足を踏み入れたものづくりの現場は、想像よりも大変な世界でした。
「先ほどのプレスや研磨を含めて、各工程の前後の『繋がり』がすごく難しいんです。だからみんな知恵を出し、金型をこうするとこうなって…と細かく話し合います。ですが、各工程の技術の細部を勉強していくと、これは面白いとより思うようになりました。」
修司さんは続けます。
「私が新米のころに工場長だった方はデザインにものすごくこだわる人で。試作を持っていくと、『お前、お客さんがどう使うか分かってんのか』と2時間説教をくらいました。(笑)フィーリング(感性)なんですよね。感覚的で目に見えない部分も、ものすごい苦労して勉強しました。図面を見たり、美術品の本を読んだり。社長や先代には、『買えなくても、良いものは全て見てこい』と言われたので、とにかく色々なものを見て、美しいものや、その他のものづくりの傾向を掴んでいったんです。」
品質が鍛えられた、「NO」と言わない山崎のものづくり
商品一つひとつにはデザイナーの存在があります。その商品には、デザイナーのどんな意図が隠されているのか。修司さんは、現場として徐々にそのデザイナーの意図や想いを形にすることができるようになりました。
「作る過程において、採算が合わないと他の会社では“できない理由”を真っ先に探します。ところが私たちは“できる理由”を探して実践する。これが山崎金属工業の強みです。山崎家の伝統で、みんな負けず嫌いなことも根底にあります。(笑)なんとかデザイナーの要望を汲み取り、デザインのキーを掴むのが得意なんです。デザイナーの多くは夢物語を話します。そして、それを現実的に落とし込む作業が私たち山崎金属工業の得意とするところです。」
「安いものなら中国産でもありますが、我々がやらなきゃいけないのはその上のクラスです。高い目標がなければ、私はこの仕事辞めてますよ。」
山崎金属工業のブランドを保ち続けるための戦略
先代がゼロから築き上げた「山崎」という世界レベルのブランド。会社を引っ張っていく存在として、社長の悦次さんがいま心がけていることを伺います。
「日々心がけているのは、山崎のブランドを守ることです。ブランドを汚すのは一夜にしてできてしまいます。モノマネをしたり、為替の影響で割に合わないからと、品質を落として手抜きをしたり…。そんな行為は絶対にしてはいけません。常日頃、ごまかしてはいけないのがブランドを守るという行為だと思っています。」
「テーブルウェアを男性のスーツに例えると、高いスーツが茶碗、シャツやネクタイが高級なクリスタルガラス*でできた製品、そして隠れて見えないソックスがスプーンやフォークなんです。」
「せめてソックスからネクタイまではステップアップしていきたいですね。」
カトラリー業界の底上げに、静かに闘志を燃やしながら悦次さんは話します。
さまざまなマーケットの変化にも対応できるよう、海外の有力なスタッフを仲間に引き入れる体制を整えました。
そして今、山崎が狙う大きいマーケットは、アメリカで行われるトレードショーやブライダルマーケットです。
毎年シーズンに合わせたマーケティングをするために、ドイツのフランクフルトなど発信の早いヨーロッパに出向き、アメリカでまだ発表されていないテーブルウェアに合わせてカトラリー製品のコーディネートをするようにしています。
山崎金属では、背広に合わせなきゃネクタイのコーディネートができないように、テーブルウェアの皿やカップ、ソーサーなどに合わせ、カトラリーの大きさや形をデザインしています。
世界の一流では今どの様なテーブルウェアが求められているのかを知り、カトラリーを作る山崎金属工業のブランドへと落とし込むのです。
そもそも、その昔、山崎金属工業のカトラリーが使われたノーベル賞の授与式では、デザイナー、メーカーも全てスウェーデンのものという条件でテーブルウェアがコーディネートされるのが普通。記念晩餐会のプロジェクトチームにも、スウェーデンを代表するOrrefors(オレフォス)のデザイナーが入っていました。
そんなところになぜ山崎金属工業が採用されたのか。
実はこのデザイナーが悦次さんと旧知の仲で、品質の良いカトラリーを作るメーカーとして推薦してくれたのです。プロジェクトチームも悦次さんの古くからの知り合いばかりで、山崎なら喜んで推薦する、と快く迎え入れてもらい、会場のカトラリーの製造に携わることになったのです。
若いころ、悦次さん自ら足を運び販路を広げたことで出来た信頼と繋がり。品質への徹底的なこだわりが財産へと代わり、山崎金属工業の縁をノーベル賞の会場へと繋いだといいます。
山崎金属工業のデザインへのこだわりは、今後、新しいフェーズへと入ります。
made in tsubameの打ち出しを目指し、伝統を革新させていく
その昔、この地域の中小企業同士は互いが熾烈に競争し合い、隣の家とも火花を散らしていたといいます。
それが今では、別々の町同士でも地場産業を一緒になって盛り上げようとしています。ものづくりへの垣根を超えたチャレンジ精神が、今の燕三条には溢れています。
悦次さんは「最近の燕三条は変わってきているという実感はありますか?」という質問に対して「ものすごく!」と大きくうなずき、前向きな印象を持っている様です。
「マーケット(市場)やデザインの嗜好は、女性のファッションの様に変化して巡っています。それは伝統でも同じこと。時代に合わせて変化し続けるのが伝統です。止まっていると、伝統は維持できません。燕三条の地域で古くからものづくりの歴史がある玉川堂さんだって、原点は鎚起銅器でも製品の形は変わっています。基本は崩さないで、形は時代に順応していく。この地域は、国内だけではなく海外に向けて、デザインも全て発信できるようになっていってほしいですね。」
ここ5年でmade in chinaは市場に飽きられてきています。その一方で、日本食ブームも重なり世界的にmade in Japanの良さが見直されつつあります。
「だから、私はさらにmade in TSUBAMEを推していきたいんです。世界でも燕三条地域は有名ですし、それが中国や新興国との差別化にも繋がっていきます。」
日本国内でも、今や値段だけではなく品質で商品を選ぶ時代。海外も含め、ものの価値に気づき始めている人たちが増えたとき、本当にいいと思えるものを作れる企業はいったいどれくらいあるのでしょう?
ここでしか作れない技術を持つ日本として、燕三条として、いずれ世界のブランドたちが何か作りたいと声を上げた時に、「大丈夫、作ることができる、燕三条がいる」と誇らしく言える未来は、そう遠くないのかもしれない。
そうありたいと願う職人たちのチャレンジが、今日も続いています。
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