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2018.3.13 UP

「ものづくりはひとつの人生のストーリー」理容バサミの先人たちの背中を追い続けた青年の二十年 コスモ・スミス

「日本一の金物の街」と名高い新潟県三条市。
この地域は江戸時代、農民の副業として始まった和釘の製造がきっかけとなり、鍛冶工場が増え、刃物、金物の街として栄えました。今では世界からも一目置かれている、日本のものづくりの最前線です。

そんな燕三条で、20年前に理美容バサミの製造が始まりました。
未開拓だった理美容バサミの職人として手をあげたのは当時22歳の青年。

「自分の一生涯で、最後までお客さんと向き合えるものづくりがしたい。」

現在では、東京銀座にあるバーバーのほとんどが使用しているという、理美容バサミの製造メーカー有限会社コスモ・スミスの代表であり「セニング*の魔術師」と呼ばれる職人技術の持ち主の名前は栗林達也さん。

彼のあたたかな笑みの奥には、ものづくりへの燃ゆる闘志を垣間見ることができます。

「会社が小さくても、世界は目指せるんです。」

世界を目指す、理美容バサミづくりとは。
一人の青年をハサミ作りへ導いた先人たちと、日本のものづくりのドラマです。

*セニング・・・髪の量のボリュームを調整したり、切り目をやわらかく馴染ませるようにする技術。セニングシザーはスキハサミのことを指す。

 

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丁寧に工程を解説してくれた栗林さん。自身も職人なので現場の知識は圧倒的

 

金物の街、三条にやってきた新たな刃物

セコリ百景:本日はどうぞよろしくお願いいたします。(事務所を見て)美容院で見たことある人形(ウィッグ)がたくさんありますね。

栗林さん:はい。これでハサミの切れ味を確認しています。

セコリ百景:なるほど。使い手の目線でものづくりをされているんですね。燕三条はもともと刃物が有名な街ですが、この中で理美容ハサミが作られるようになったのは、最近なのでしょうか?

 

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栗林さん:今から25、6年前までは、この三条に理美容ハサミは全くありませんでした。そもそも、ハサミの形の由来は日本のものじゃないんです。これはギリシャなど西洋で発展したハサミの形なんですよ。

セコリ百景:海外から輸入されたものなんですね。

栗林さん:はい。では、日本のハサミって何だと思いますか?

セコリ百景:うーん…舌切り雀*にでてくるような、U字型のハサミですか?

*舌切り雀・・・日本のおとぎ話。物語の中で和ばさみが登場する。

 

栗林さん:その通りです。糸を切ったり、布を切るハサミのことですね。

セコリ百景:西洋ハサミが日本に輸入されたのはいつごろなんですか?文明開化の起きた明治時代あたりでしょうか。

栗林さん:文房具のハサミとして輸入されたのは明治時代に入ってからですね。まだそのときでも、理容所ではハサミを使っていないんです。使い始めたのは大正になってからと言われています。

セコリ百景:昔の日本人は何を使い髪の毛を切っていたんでしょう?

栗林さん;カミソリです。昔の日本人は剃って整えていたそうです。侍とかがそうですね。今でいうと、お相撲さんが近いでしょうか。

セコリ百景:コスモ・スミスのホームページに「日本刀や剃刀の刃を目指す」と書かれていて気になっていたのですが、原点を大切にされているという意味なんですね。

栗林さん:日本人を始めとし、東洋系の人の髪の毛は、西洋人と比べてキューティクルが固いんです。それを切り裂くには、カミソリのように鋭く髪に食い込むようにしないと切れません。それほど鋭い刃を作るためには、刃の形状が大切になってきます。うちのハサミは、日本刀にも用いられる蛤刃*(はまぐりば)を取り入れているんですが、実はこの蛤刃をハサミに取り入れたのは私の師匠が第一人者なんです。

*蛤刃(はまぐりば)・・・蛤の貝のような丸みを帯びた刃の形状のこと。熟練の職人技術が必用とされる

 

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セコリ百景:そんな方のもとで学んでいたんですね。師匠さんのお話も伺いたいですが、まずは、なぜだれも作っていなかった理美容ハサミの道に進もうと思われたのか、お話を聞かせてください。

 

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セニング・シザーの金型

 

いい材料を作りたいから始まった、ハサミ作りの道

栗林さん:小さいころからものづくりが好きで、学校から帰ると宿題を適当に終わらせてプラモデル作りに励むような子供でした。机に向かって何かをやることは自分には向いていないのはわかっていたので、将来はできれば手に職をつけられるような仕事をしたいと思っていました。

セコリ百景:以前、別の職人さんにお話を伺った際も、プラモデルが大好きな少年だったとお聞きしたことがあります。社会人になって勤めた会社はものづくり関係のお仕事だったのでしょうか?

栗林さん:自動車の部品をつくる会社に4年ほど勤めました。私が就職したのが平成3年で、ちょうどバブルが弾けるくらいのころです。1年ほどするとバブルが崩壊し、仕事が急激に減ってしまったんです。その時に初めて、景気は良い時だけではないんだと実感しました。そして、今後どうものづくりをしていきたいのか考えると、自動車部品のような分業化された一工程、二工程を担うのではなく、お客さんと最初から最後まで向き合えるものづくりがしたいと思い始めました。そんな時に、父親から理美容ハサミ作りをしてみないか?と誘われたのです。

セコリ百景:お父様がきっかけで職人の道に進まれることに?

栗林さん:結論から言うと、そういうことになります。実は父が勤めていたのが、コスモ・スミスの向かいに本社があり刃物や利器材の材料を作っている山村製作所なんです。その山村製作所が今から23年前に、理美容バサミの商売を手掛けようとしていました。材料を作るには完成品を知らないといけない。完成品を作るにあたって、自分の会社の社員をハサミ作りの修行に出して創業しようとしていましたが、なかなか話がまとまらなくて…。そこで、私の父親にも話がきたんです。

 

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コスモ・スミス前の看板と後ろに見えるのは山村製作所の工場

 

セコリ百景:このまま進むのがいいのか悩まれていた時期に、お父様から誘われたんですね。それでそのまま山村製作所に入ることになったんですか?

栗林さん:実は、すぐには返事ができず半年悩みました。

セコリ百景:葛藤があったんですね。

栗林さん:半年間、会社で働きながら頭ではハサミ作りのことを考えていました。収入のことや安定のことを考えると会社に勤めていたほうがいいのはわかっていました。けれど果たして、このまま一工程、二工程の仕事で満足できるのかどうか。そこでようやく、父親に返事をしたんです。当時はまだ若かったし家庭を持っていなかったので、万が一転んでも独り身だからと腹を括りました。その代わり、自分で確立するまでは嫁さんはもらうまいぞ、と決めていました。それに、親の七光りが嫌だったのも独立の道へと踏み切った理由です。

セコリ百景:そうしてその後の修行先の会社で出会ったのが、蛤刃(はまぐりば)の第一人者である師匠なんですね。

 

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「夢にかけてみた」初めて足を踏み入れる、職人の世界

セコリ百景:ハサミ作りの道を志して、実際どんなことを学ばれたんですか?

栗林さん:そうです。父親が勤務していた山村製作所の社長(現会長)の紹介で別のハサミ製造会社へ修行に出た際に出会いました。当然、ハサミの作り方なんて知らないので、まずは構造体や原理をみっちり学びました。修行の期間はお礼奉公*を含めて一年半と決まっていて、それが終われば山村製作所に戻り実際にハサミを作らなければいけなかったので、道具は何が必要なのか、指導方法はどんなものなのか、そういったことも勉強させてもらいました。

*お礼奉公・・・恩返しとしてある期間働くこと。栗林さんは半年のお礼奉公。

 

セコリ百景:サラリーマンから一転し、職人の世界に飛び込んだわけですが、大変だったことはありますか?

栗林さん:以前勤めていた会社は、最新鋭のコンピュータを使ってプログラムを作っていました。いわゆるオペレーターのような仕事をしていたので、職人の数値化できない手仕事の世界は大変でした。ほとんど感覚の世界なんです。言われたことを必死にやって、わからないことを質問できるように、いつも自分の仕事内容の整理していました。ですから、毎日向き合うとかなり疲れるんですよ。精神力もここで鍛えられたんじゃないかと思います。仲間や修行先の社長にも「君は職人はむいてない」と言われていました。

 

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セコリ百景:修行先では、師匠との関係性はどんな感じでしたか?

栗林さん:私の師匠は職人が好きで、若いスタッフの成長を見るのが好きな人でした。昔ながらの職人気質で「師匠の道具には触らせてもらえない」ということはありませんでした。遅くまで練習していると、「何時に終わるんだ。練習が終わったら来い。」と言われて、何を言われるんだろうと思いながら師匠のところにいくと、食卓に料理が並んでいたこともありました。一人で上京していたので、とてもありがたかったですね。
師匠はこの業界の第一人者で、理容師としての経験もあり、故にこのハサミを「こうしたい」という強い想いがありました。修行中も、いつも使い手目線で教えてくださいました。

セコリ百景:修行というと、師匠の背中を見て覚えるような感じなのかと思っていました。その後、1年半という短い期間で山村製作所に帰ってきてハサミ作りはどれくらいできるようになったのでしょう?

 

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職人が腕をふるうコスモ・スミスの工場内。

 

栗林さん:一日に5丁できればいい方でした。かといって、値段が高ければ売れる物ではないので、自分の働きでは「給料にもならない」と言われていました。お世話になったある理容師出身の販売店さんでは、購入した私のハサミをこっそり手直しして売ってくれていたんです。修行した1年半と、戻ってからの1年半、あわせて3年は四苦八苦しながらハサミを作っていました。

セコリ百景:周りの方にも助けられたのですね。ハサミを作る工程の中で最も大変なところはありますか?

栗林さん:一番難しいのは、ハサミのかみ合わせを叩いて調整する工程です。ハサミは、ただ二つの刃を合わせるだけでも切れてしまうんですが、そうするとバツっと切れて髪の断面がつぶれてしまうんです。ですから、刃はしなやかに閉じるものがいいんです。両刃でサクっと切れるようにするのは、誤魔化しの効かない工程です。本当に手仕事、感覚の世界で、均一にハサミを作れるようになるまでに3年前後はかかります…。

 

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手探りで誕生したセニングシザー。構造体の穴を埋めた半年がかりのプログラム

栗林さん:実はうちのハサミ、修行時代に教わった作り方から作り方を今では80%ほど変えているんです。これを師匠に言ったら怒られちゃいますね(笑)

セコリ百景:8割も!そこまで大幅に変えられたのはなぜですか?

栗林さん:取引している会社さんやお客さんの声を反映させていたら、いつの間にか、という感じです…。うちにはテスターである理容師の先生もいるので、ある程度基準を設け、男性と女性のテスターに使ってもらい意見をいただいています。正直、1年半では学び足りないことも多く、協力工場さんと仲良くなりつつ、研究を繰り返していました。

セコリ百景:とにかく、作ってみて、テストして、改善して、の繰り返しだったんですね。今では栗林さんのハサミは東京の銀座にあるバーバーがほとんど使っていて、セニングの魔術師と言われるほど有名なんですよね。セニングも師匠から教えてもらったものを軸に作られたのでしょうか?

栗林さん:実は私、セニングの作り方を教わっていないんですよ(笑)

セコリ百景:それでは独学でここまで…?

栗林さん:はい。散々切れないハサミを作りましたよ。答えがない世界なので、ハサミが手に入ればバラして、それを見ながら合わせて作ってみたりしていました。仲の良い美容師さんのところに持って行って、また改良して…

 

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セコリ百景:手探り状態から始まったんですね。そもそも、どうしてセニングに注目されたんでしょう?

栗林さん:私が独立したころは、セニングは理美容業界ではあまり注目されておらず2割程度のシェアでした。けれど、ヘアスタイルの幅が増えたことで今ではセニングが6~7割のシェアを誇っています。セニングのハサミは一本持っているだけではだめなんです。

 

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セコリ百景:使い分けが必要になってくるんですね。

栗林さん:そうです。しかし従来のセニングシザーは、切ったときに髪の断面がつぶれてしまっていたんです。そこで、構造体の問題に着目し、山村製作所の会長の提案でつぶさないで切れる目のパターンのプログラムを作ることになったんです。切った断面を顕微鏡で確認しながら作っていました。会長の奥さんがプログラムが得意だったため、会長がパターンを書いて奥さんがプログラムに起こしてくださいました。当時はすべて数字で打ち込まなきゃいけなかったので、プログラム一つ作るのに一週間は要していたそうです。
パターンのどの部分を改良したのかを紙に記していたのですが、捨てちゃったんですよね。そのため記録が残ってないんですよ。残しておけばよかったです(笑)

セコリ百景:気の遠くなる作業ですね…!妥協しないものづくりをしてきたからこそ、使い手である理美容師さんの信頼を勝ち取ることができたんでしょうね。

栗林さん:いえいえ、今でも私はまだ修行中の身です。

 

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為せば成る。会社は人生のギャンブルのようなもの

セコリ百景:コスモ・スミスの創業当初に山村製作所が掲げていた、「完成品を知らないと、いい材料が作れない」というお話は、製品作りの工程がわかるようになったことで、何か変化はあったのでしょうか?

栗林さん:材料に対する関わり方も変わりましたが、一番大きいのは投資力ですね。組織として、板の状態の材料からハサミとしての最終製品までを一貫して製造・販売することが可能となりました。材料は山村製作所で、完成品は私のコスモ・スミス。この二枚看板でやれるようになったのはとても大きいです。

セコリ百景:ものづくりでは材料調達も重要ですもんね。材料だけではなく、要望に合わせた売り方もできるようになったんですね。
けれど、未開拓の地だけではなく、25歳という若さで経営者としても新しく歩み始め、プレッシャーは相当だったのでは…?

 

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叩いて微調整をする。これが機械には出来ない手仕事の妙です。

 

栗林さん:そうですね。同業他社の先輩方はかなり歴史を持っているところばかりなので、未熟な私は到底追いつけないと感じていました。それなら、追いつくためにどうすればいいのか考えたときに、時間で勝負するしかないと思ったんです。1日24時間は、人に平等に与えられているわけですから。
それから、朝8時には始業して日付が変わる深夜に帰宅する日々を5年ほど過ごしました。短時間である程度のところまで追いつこうと、変な野心が燃えていたんです。

セコリ百景:5年間毎日…!実際にコスモ・スミスの体制が整ったと実感できたのはそれからですか?

栗林さん:29歳か30歳のときでしたので、ちょうど5年経ったくらいの時期です。毎月決算を出すんですが、少しずつお金が会社に残るようになってきて、お客さんも固定してきたと実感したのが、そのくらいの時期です。

 

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セコリ百景:ハサミ作りのほうはスタッフの人で回すようになり、経営のことも考えられるようになってきたということですね。

栗林さん:けれど、見事に空振りに終わることもありました。営業を雇ったことがあるんですが、これがうまくいかなくて…。その時にハッと気づきました。製品を最初から最後まで作ることでお客さんに認めていただくのが私の目的だったので、一つのレールを敷くまでは、自分でやっていかないとダメなんだと思ったんです。普段あまり乗らなかった新幹線にも乗るようになり、自分の足でしっかり営業活動するようになりました。

セコリ百景:バイタリティ溢れる栗林さんの根源は、やっぱりお客さんへの想いからきているんですね。

栗林さん:もちろんそれもありますが、人間、自分のお金をつぎ込むと嫌でも頑張れますよ。損したくないですからね(笑)ビジネスって人生最大のギャンブルなんじゃないかと思います。

 

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小さくたって世界は目指せる。次なる小さな野望

セコリ百景:現在スタッフは何人いらっしゃるんですか?

栗林さん:職人が7名います。去年の10月に1名と、今年1名、新たに入ってくれました。私ももう45歳になるので、向こう10年のことを考えそろそろ体制作りをしていかねばと思っています。

セコリ百景:今後は拡大を目指されるんでしょうか。

栗林さん:いえ、創業当初から、増やしても10名までと決めています。自分の能力を理解しているので、多くの人を守っていかなきゃいけないと思うと、10名前後の職人が最大です。今いるスタッフにハサミ作りを託したら自分は職人を退こうと思っています。もし、70才や80才近くまで職人社長やっていたら、親方がよっぽど頭固いか、若い人がよっぽど頭悪いかのどっちかなんですよ。そう思われるのは嫌なので(笑)

 

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セコリ百景:近くで作っているのを見ていると、つい口挟みたくなってしまいませんか。

栗林さん;自分も職人が故に、きれいに辞められるかは心配ですね(笑)けれど、ものづくりの楽しさを若い人にももっと感じてほしいんです。大量生産の時代、何かを作ったとしても、出来上がったら終わり。例えば機械のボタンを押すだけでものが作れる仕事に、技術はいりませんよね。
けれど我々のような手仕事の人間はそうはいきません。若い職人は夜になると練習して自分たちの腕を磨いています。「この工程を作っているとき、うまく手が動かなかったな」というような苦い経験があるからこそ、仕事ができるようになったときの感覚はかけがえのないものなんです。その感覚が技術になっていく。職人は誘拐されない限り、技術は盗めないんです。ものづくりって、できないことができるようになるまでのストーリーのようなものだから、自分の技術を追求することにやりがいや楽しさがあると、私はそう思っています。

セコリ百景:ものづくりはストーリーである。ゼロの状態から製品も会社も作ってきた栗林さんだからこそ感じる思いなのかもしれませんね。さらに体制を整え、その次に見据えてる世界はあるのでしょうか?

栗林さん:・・・夢があります。

セコリ百景:?

栗林さん:はい、小さくたって世界を目指せる。そう考えています。自分たちは新潟の燕三条地域の小さな工場です。そんな私たちがすでに韓国や香港、中国に輸出しています。今後はさらにアジアを狙って商売していこうと思っています。

 

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先人たちの想いを受け継ぎ、「お客さん」へと繋いでいく

コスモ・スミスという会社の名付け親は栗林さんの師匠でした。栗林さんが、名前を付けてほしいとお願いしたそうです。

師匠の会社のブランドの「コスモス」と、山村製作所の会長から付けたいといわれた「スミス」、ふたつを掛け合わせて生まれました。

言葉で褒めてくれることはなかったという師匠。
それでも、師匠が自分たちの主力ブランドの名前を授けるほど、きっと栗林さんへの期待は大きかったのでしょう。

 

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実は栗林さんと師匠のお二人にはこんなエピソードもあります。

修業時代の会社では、師匠のご子息が社長を務めており、独立を計画する栗林さんに下請けを依頼しようと考えていたそうです。そんなときに師匠が「うちの下請けなんてしなくていい。あなたの後ろには大きな材料メーカーである山村製作所がついてくれている。それなら、あなたが良い材料を私たちに提供できる立場でいて下さい。」そう、栗林さんに話したそうです。

そこに自分たちの損得勘定はありませんでした。
同じものづくりの道を歩む者同士の、紳士協定の様なものだったのかもしれません。
そして、この師匠の一言があったから、今こうして栗林さんがあります。

何度も二人三脚で改良を重ね、ハサミ作りをしてきた山村製作所の会長。
上手くハサミを作れなかったときに助けてくれた、盟友の理容師・美容師さん。

このハサミは、師匠だけではなく、周りの方と一緒に築き上げたストーリーです。

作り手だけではなく、使い手も、もとになる材料を作るメーカーも、誰が欠けても良いものづくりはできません。

ものづくりの出発点は、やっぱり作り手なのだと感じました。

 

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ハサミの材料のステンレス。ここから全てのハサミは作られます。

 

疲れにくい構造*からは使い手への優しさが、髪の断面が潰れないすきバサミ作りからはカットされるお客さんへの思いやりが。
使い手は、製品からその思いを感じ取り、惚れこむのかもしれません。

*疲れにくい構造・・・人間工学に基づいた、握ったときに痛くなく、手に収まるデザイン。

 

「最終製品を知ることでいい材料を作りたい」

「最後までお客さんと向き合えるものづくりがしたい」

「より良い材料を提供できる、そのパイプ役になってほしい。」

小さな夢にかけた、ある青年の話。
たくさんの想いを受け継ぎ、コスモ・スミスのハサミ作りは今日も続きます。

 

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有限会社コスモ・スミス
住所:新潟県三条市金子新田丙875-18
電話番号:0256-32-8338
http://www.cosmo-smith.co.jp